【小説】ウソの行方 #3
目が覚めた。ソファで寝落ちしたようだ。寝返りをうてるほどの広さは認めるが、これほど心地よい目覚めは何年ぶりだろうか。すでに両親はいないのに実家というだけでここまで熟睡できるとは。単なる建造物を超える何かが実家には秘められているのだろうか。
何ひとつ予定はなかった。大雑把にいうと何ひとつ義務もなかった。こういうなじみのない環境を与えられると人は突拍子もない行動をとるものだ。俺はキッチンに立っていた。実家を出てから料理なんて全然していなかったのに。
キッチンには何のにおいも残っていない。ホタルは朝食を取らずに出勤したようだ。あのくたびれた身体に栄養を与えることなく外出するとはまだまだがんばれるつもりらしい。
冷蔵庫の野菜室を開けると以前と同じ位置にコメの保存容器が収まっている。いったいいつから保管されているのだろう? 冷蔵室には見覚えのある銘柄のヨーグルトや味噌が同じ場所に収まっている。XO醤にマスタード、めんつゆ等々の調味料も然り。賞味期限は拍子抜けするほどすべて大丈夫だった。母が死んで7年にもなるのにいったいどういうことだ? 冷蔵庫を開けることすら稀だった父なのに?
母にまだ元気が残っていたころの俺はキッチンに入り浸っていた。母がそこにいたからだ。幼いころ、母の足元に座り込んでトランスフォーマーで遊んでいた記憶もある。あんまりしょっちゅうキッチンにいたせいだろう、簡単な料理の手順は体が覚えていた。卵焼き器はすぐに見つけられたしスマホに頼ることなくご飯を炊き鮭を焼き、だし巻き卵を作った。味噌汁は味噌を入れたら完成だ。
ホタルはいないのに気がつくとランチョンマット2枚を向かい合わせに敷いて箸置きを選んでいた。ほとんどの食事は母と二人きりだったのを思い出していた。不動産会社に勤めていた父の帰宅は日常的に深夜で激務なのだと言っていたが本当にそうだったのか? いまさら考えても仕方のないことに捉えられようとしているのに気づくと不意に笑いが込み上げてきた。両親を相次いで喪った無職の男にだって笑う権利はある。
そのとき、ホタルが帰ってきた。いただきますのタイミングで食卓に登場する生命力を持ち合わせているらしい。
「うわっどうしたの! わたしの分まである。ユウスケ、料理できるんだ」
「これくらいは誰でもできるだろ。それよりどうしたんだよ、昼前に帰って来るなんて」
「病院に行ってきたの。眠れない、食べれない、もう疲れたと訴えたら説得力のある口調で仕事を休むように言われたわ。2週間後にまた受診してくださいだって。ユウスケ、ありがとうね。あんたが言ってくれなかったらわたし、倒れるまで働いていたかもしれない」
「そこまで言われると逆にウソっぽくなるね。それよりご飯食べれないって本当?」
「うん、さっきまではね。でも、仕事を休むって決めたら急におなかがすいてきたんだよね。しかも目の前においしそうな料理が並んでいる。いただきましょうよ。冷蔵庫に辛子明太子もあったでしょ?」
無職の俺と休職を決めたホタルがせっせとご飯を食べている。俺たちがご飯と味噌汁をお替りしてモリモリ食べている姿をもしも母が見ていたら
「どうしたっていうの? 二人とも欠食児童みたいじゃないの!」
と大喜びしたに違いない。
「あのさ、キッチンが昔のままなんだよ。ホタルが使ってるの?」
「ううん、わたし料理しないから。伯父さんだよ、伯父さんが料理作ってわたしに食べさせてくれていたの」
「まさか!」
「伯母さんが亡くなってからユウスケは実家に寄り付かなかったから何も知らないだろうけれど、簡潔に言うね。伯父さんは家事のエキスパートを探してきてマンツーマンで指導してもらったらしく、わたしが遊びに行くと手料理でもてなしてくれるようになったの。美味しい美味しいって言ってたら毎日食べさせてやるからここで暮らせと誘われて。変な話だよね。でも、もしかしたらわたしの母から頼まれたのかもしれない。わたしも実家に寄り付かなくなって久しいからね。とにかくキッチンを使っていたのは伯父さんよ。伯父さんは伯母さんが使っていたキッチンをそのまま使うことに命を懸けているように見えた。なんだか不思議な夫婦だよね」
確かに憎み合っていたのか、お互いのことを見つめすぎていたのか疑念は膨らむばかりだ。遺品整理をしていくうちに見えてくるものはあるのだろうか。
「ところで頼みがあるんだけど。ホタルさ、アパート探すって言ってたけど、もう少しここにいてくれないかな」
「ふーん。もう少しってどれくらいかしら」
「無期限でもいいよ」
「どういう意味? もっとわかりやすくいってくれない?」
「わかりやすくも何もその通りだよ。ホタルがいてくれた方が安心するというか、俺が思い付かない発想をしてくれるし、俺が知らない話も聞かせてくれる。ホタルがいるとなんか落ち着くんだよね。遺品整理は手伝ってもらわなくて大丈夫だよ。意見を聞くことはあるかもしれないけれど。料理は作るときは二人分作る。家賃は要らないけど光熱費は半分出してもらえるとありがたいな」
「要するにわたしにいてほしいのね。いいわよ、いてあげても。伯父さんと伯母さんにはよくしてもらったし、この家の行く末を見届けたい気持ちもある。どのような形でも貢献できるのはうれしいわ」
「いてくれるんだね、よかった。それと、ずっと考えていたんだけど形として残せるものを贈りたい。欲しいものある?」
「ダイヤの指輪」
「ダイヤの指輪ってハードル高すぎ」
「どのあたりがハードル高いわけ?」
「全然買ったことないし、まったくお手上げ。ホタルに買ってきてもらってお金渡すってのはどう?」
「それはないでしょ。一緒にジュエリーショップに行ってくれれば大丈夫よ」
ホタルが真顔で俺を見つめている。
「ユウスケはダイヤの指輪の意味わかってる?」
「わかってるよ、高級ジュエリーだろ」
「違います。大切な人への贈り物っていう意味よ。とにかくジュエリーショップに連れて行ってね、約束よ。指切りげんまんウソついたら針千本飲ます」
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