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関戸合戦とどうよう塚(東京都多摩市和田)
どうよう塚(雑兵の塚)
ドヨウ塚
和田地区の宝蔵橋付近をドヨウ塚、ドウヨウ塚という。昔、新田義貞と北条軍の戦いのときに大勢の雑兵が戦死し、村人が数か所に埋葬した。それを雑兵塚とよんでいたのであるが、しだいにドウヨウ塚、ドヨウ塚とよばれるようになったという。(『子どものための歴史のさんぽみち』)。 また、馬や牛などの死体を埋めた所とも伝えられている。嫁入りにこの前を通ると、花嫁がさらわれてしまうので、嫁入りには通ってはいけないという。(『叢書5』)
「どうよう塚」という通称で知られる多摩市和田の地名には不気味な由来がある。
昔、この辺りは分倍河原合戦の古戦場で、多くの戦死者がでた。分倍河原合戦は、1333年に行われた鎌倉幕府滅亡の契機となった重要な戦いの一つで、この合戦は鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇を支持する新田義貞と鎌倉幕府側の軍との間で行わた。
分倍河原合戦は、現在の東京都府中市分倍河原および多摩市関戸の周辺で起こり、鎌倉街道沿いに位置する戦略的に重要な地点であったことから関戸は重要視されていた。関戸はかつて幾度も合戦や陣営が置かれた地である。その背景には、関戸が鎌倉街道上ノ道沿いという交通の要所に位置していたことが大きいと考えられる。
このため、関戸には関所が設けられ、その地名も「関所」があったことに由来するとされている。関戸の関所に関する最も古い記録は、鎌倉時代末期頃に成立したとされる『曽我物語』である。建久4年(1193年)に上野や下野の狩場を視察するために鎌倉を出発した源頼朝は、「関戸宿」に宿泊したと記されている。また、平将門がここに「関戸」を設けたものの、討伐に来た藤原秀郷が「霞ノ関」と名付けて打ち破ったという古い伝承も残されている。
分倍河原合戦では雑兵の遺体があちこちに散乱していため、地域の人々はそれらをいくつかの場所に集めて葬り「雑兵塚」として供養したという。その一つが多摩市和田の宝蔵橋のバス停付近であった。
この「雑兵塚」が転じて、やがて「どうよう塚」と呼ばれるようになったと伝えられる。また、死んだ牛馬の死体を埋めた場所(捨て場)とも云われる。そのため、かつては縁起が悪い場所とされ、結婚式の際には花嫁や花婿の一行がこの地を避け、わざわざ遠回りをしていたと言われている。
分倍河原合戦は祟り的な意味合い(忌み地)と結びついている
冒頭の観音寺の供養は、昭和 20 年代、30 年代に行われるようになりました。当時、働き盛りの方が早くに亡くなることが続いたそうで、これは関戸合戦の戦没者の供養をしていないからではないかということが考えられて、供養が実施されたということです。何か悪いことがあったときに、関戸合戦の戦没者の供養をしていないからではと発想が行くところがやはり、地域性であると感じます。(『関戸合戦と関戸の地域性』~午後の部:講演 橋場万里子 氏~)
多摩市せきど観音寺では毎月16日に分倍河原合戦や第二次世界大戦で戦死した方の供養を行っている。多摩市関戸周辺では悪いことが起こると土地の穢れ、つまり分倍河原合戦の死者の供養が足りないからではないか?と考えられていた。
昭和期にその地域で早死に続くことがあって、これは分倍河原合戦の戦死者の祟りのせいだと考えられたので、多摩市関戸の観音寺では戦死者の供養が始まる。5月16日に行われる大々的な供養では、寺でお経をあげた後に無縁仏(戦死した雑兵)、安保入道の塚、横溝八郎の塚に卒塔婆を立ててお参りをおこなっている。
5月16日は関戸の戦いが行われた日であることが確認されており、供養日もそれに合わせたことが想像される。関戸に残る伝承地としては、聖蹟桜ヶ丘駅の近く人は旗巻(はたまき)塚と呼ばれる塚があったことが伝えられており、北条軍が旗を巻いて退却した場所だと云われている。横溝八郎の墓とされる八郎塚や関戸の古戦場跡、雑兵塚や安保入道の塚も残されていおり、鎌倉幕府の陣は関戸側にあったことが予想されている。
横溝八郎と安保入道親子(北条泰家を守った鎌倉武士)の活躍
分倍河原から撤退した北条泰家(第14代執権・北条高時の弟)は、7万の兵を率いて鎌倉幕府の関所である霞ノ関周辺で防衛戦を展開する。しかし、この戦いは半日も経たないうちに新田義貞軍によって幕府軍は壊滅的な打撃を受ける。北条泰家は家臣である横溝八郎や安保入道父子の捨て身の奮闘によって命を取り留め、辛うじて鎌倉へ逃亡できたが、戦闘中には脱走兵や逃げる武将が相次ぎ、幕府軍は完全に崩壊した。
横溝八郎と安保入道父子は関戸にて討ち死にしており、この合戦後、幕府側は新田義貞軍の20万を超える大軍とまともに戦える戦力をほとんど残していない状態に陥った。
横溝八郎は北条泰家の家臣であり、関戸合戦において泰家を守るため奮闘した。横溝八郎が死守する中、泰家は尾根沿いに鎌倉へ退却したと伝えられている。彼は弓の名手であったが、北条泰家を守り抜きこの戦いで関戸の地にて討ち死にした。藤原南家出身の工藤氏の一族であり、得宗被官でもあった。
安保入道は、横溝八郎とともに関戸合戦で討死した鎌倉北条氏の武士である。安保入道は、父子ともに関戸合戦で命を落としたが、その詳細は不明な点が多い。法名も『太平記』では「道堪」とされ、『梅松論』では「道潭」と異なる表記が見られるため、確定していない。実名についても「四郎左衛門宗頼」や「新左衛門尉経泰」などの説があるものの、明確ではない。安保氏は、武蔵国賀美郡安保郷(現在の埼玉県児玉郡神川町元安保)を本拠とした得宗被官で、丹治姓の一族であった。安保入道は安保氏の本家の人物と見られるが、中先代の乱でその子が自害し家系が絶えたため、彼の没後は足利方の分家である安保光泰が領地を引き継いだとされる。
八郎塚と入道塚
『太平記』に討死が伝えられる横溝八郎の墓とされる古塚がある。『関戸旧記』や『郊遊漫録』によれば、この大小の塚のうちのひとつが横溝八郎の墓とされている。『関戸旧記』では大きな塚を「山伏塚」と呼び、小さな塚が横溝八郎の墓とされるが、『郊遊漫録』では逆に記されている。塚の頂部には祠が建てられており、その内部には現在も位牌が安置されている。
安保入道親子の墓と伝えられている入道塚。かつては関戸村の名主である相沢氏の宅地内に所在していた。墳墓の上には柏(または榧)の木があったが、文政頃(1818~1830年)に枯れてしまったとされる。宅地の主で文人でもあった相沢伴主により、これが安保入道の墓であると推定され、祠は伴主の子によって建立された。現在は個人宅の敷地に存在するため、見学は難しい。