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核兵器の恐ろしさを改めて学んだ2日間(創大生の春休み①「平和」)




秋学期も終了し、2月に突入!寒かったり暖かかったりと気温差が激しい毎日です。

はじめに

2月8日(土)と9日(日)の2日間、東京広尾にある聖心女子大学で「核兵器をなくす国際市民フォーラム」が開かれ、ボランティアスタッフとして参加してきました。

2025年は終戦、そして広島・長崎の原爆投下から80年。2024年のノーベル平和賞は日本被団協が選ばれました。今回のフォーラムでは日本被団協、核兵器をなくす日本キャンペーン、ピースボートはじめ、広島、長崎、日本と世界中で活動されている団体、大学研究者が一堂に集まり、今後の核軍縮、平和と戦争について考えました。

私はボランティアスタッフとして、会場内の参加者への道案内や、海外からの登壇者への英語対応、展示を行う団体さんの展示準備のお手伝いと会場内の見回りをしました。

数ある参加団体さん活動の中で私自身が印象に残ったセッション・展示を紹介します。

①原爆と差別

参加団体につき数名のボランティアスタッフがつくんですが、私が担当した広島の「きのこ会」のお話をしたいと思います。

「原爆小頭症」という病気をご存じでしょうか。原爆小頭症とは、母親の胎内で被爆し、原爆投下による過度の放射線が原因で発症する障害で、生まれてくるときに頭が小さく脳と身体に障害を負っています(きのこ会HPより一部引用)。被爆2世と誤解されることがありますが、被爆した際は胎児であったことから、「最も若い被爆者」とも言われています。
精神的にも身体的にも障害を負っていることもあり、その後の人生でも不自由を強いられてきました。

「頭が小さい」という特徴があることから、戦後の社会では差別と偏見に苦しみました。当時、原爆小頭症による障害は「単なる栄養失調だ」という認識がなされており、長年明らかにされていませんでした。その後ジャーナリストによって小頭症被害者の実態が明らかになり、原爆症認定を取得したそうです。
しかし長年の差別に苦しめられた被害者の方々の中には、今日でも外部との接触を拒む人もいます。

「原爆を落としたのはアメリカだが、差別を引き起こしたのは同じ日本人だ。」原爆小頭症被爆者と家族の会「きのこ会」の事務局の方は言ってました。

原爆が落とされた後も社会で生きていく中で苦しみと闘ってきた人がいました。

『わたしたちの声を聴いてください』(きのこ会HP)

『戦跡-薄れる記憶-』NHK HPより

②証言をもとにした絵画

ボランティア初日に、2日目に向けた準備設営作業がありました。数多くの団体さんと交流するなか、私はある団体の展示の内容に非常にショックを受けてしまいました。(著作権の関係でここには掲載しません)

高校生が被爆者の方から実際にお話を聞いて、描いた「絵画」。特に私が印象に残ったものがあります。

そこに描かれていたのは、原爆によって皮膚が剥がれ落ちた数人の被爆者たち。両腕の皮膚がはがれるも、剥がれ落ちることなく、両手の爪に引っかかり、爪が長く伸びているかのように、皮膚が垂れている絵画でした。それも一人だけでなく数名、描かれていました。

もう一つ、私が衝撃を受けた絵画がありました。
顔が真っ赤になった人。人間なのに人間だとは思えないほどの姿が描かれていました。

ちょうどその絵画(写真でしたが)を設営する際に居合わせた、
団体の担当者の方は言ってました。
「(絵に写っているその人の)目ん玉はなくなっている」
目玉がない状態、想像したくなくなるほど残酷な姿を思い浮かべました。

私自身、8年前、小学生の時に一度広島を訪問したことがあります。その際も原爆資料館で、原爆の恐ろしさと深い悲しみを感じました。

改めて「核兵器廃絶」について考えた、今回のボランティア。広島に行った際の悲しみがよみがえったと同時に、資料館の展示で感じることのなかった新たな気づきがありました。

何万人もの命を奪った原爆。資料館に展示されているのは、そのうちのほんの一部にすぎないもの。被爆者一人一人にエピソードがあってそれは相違うものがあるはず。80年たった今でも明らかにされていないこともあったり、後遺症に苦しむ人、被爆者の高齢化、など解決されるべき課題は依然残ったままです。人間として生まれてきたのに人間らしく生きるのが困難な人も大勢います。

私たち日本人は、単なる歴史上の出来事として捉えることはあってはならないし、そこから教訓として学ぶべきです。

現在、アメリカの「核の傘下」という立場で「核兵器禁止条約」に日本は参加せず、今回の締約国会議でも政府としてのオブザーバー参加は見送られました。唯一の被爆国という歴史がある日本として、国を挙げて核兵器の「残虐性」「非人道性」を訴えていく必要があると改めて実感しました。

私自身と「戦後80年」

広島・長崎、原爆とは縁があるわけではないですが、私が「平和」について考え始めたきっかけとして、家族が戦争にかかわっていたからです。
私の曽祖父(ひいおじいさん)は80年前、陸軍で召集され中国に派遣されました。1944年の2月に日本を出発し、翌45年2月21日、戦地の野戦病院で肺炎にかかり戦死しました。ひいおじいちゃんの妻であり私の曾祖母も2年前に亡くなりました。ひいおばあさんから聞いた戦時下のエピソードもありますが、80年たった今でも明らかになっていないことが多くあります。
戦後80年、被爆80年、そしてひいおじいさんの戦死から80年。
亡くなった曽祖父母のためにも私が大学生のうちに、ひいおじいさんの戦死について詳細に調査したいです。

最後に

「被爆80年」「戦後80年」という今2025年は私にとっても、日本にとっても、世界にとっても非常に重要な年であり、「平和」について身近に考える年にしたいです。

今回のフォーラムへ参加を通じて、核兵器をなくすために命がけで活動する人、特に被爆者の方々は、自分たちが経験をもとに核廃絶のために生涯をささげて活動されていました。

原爆、そして戦争によって、人々の生命が奪われてだけでなく、その後の人々の心まで奪われてしまいました。

現代に生きる私たちがするべきことは何か?
常に学び、発信し、語り継いでいきたいです。

ではまた。

2025年2月20日 執筆
2025年2月21日 加筆

参考

核兵器をなくす日本キャンペーンHP

ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)公式HP
https://www.icanw.org/

国際NGOピースボート公式サイト