「世間ズレ」の実感

 世間擦れという言葉は世間からズレていることではなく、世間で苦労して世知に長けていることを意味するらしいが、そこはちょっと置いておく。

 東大には富裕層しか行けないという記事は定期的にバズるのだが、筆者はこの問題について歯切れの良い考察ができたことがない。その理由を突き詰めてみると、筆者の生育環境がかなり世間からズレているという結論に行き着く。というのも、筆者の経験してきた環境の中で一番多様な人々と出会ったのは東大時代だったからだ。東大が金持ちクラブと言われてもさっぱり実感できないのだ。それを言うなら慶応や青学じゃないかと未だに心の底では思っている。

 筆者は小学校受験組だったので、小学校には当然環境の整った家庭の子供しかいなかった。というか、今から思うと富裕層ばかりであった。例えば筆者は日本人の二割くらいが医者だと思っていた。多分平均世帯年収は確実に1000万を超えていたと思う。友達の家に遊びに行くとビルだったりした。筆者のような凡庸なJTC家庭とは異世界である。ただ、年収800万頭打ち理論が示すように、生活水準の違いはそこまで感じなかった。

 受験関係に環境格差を感じることはなかった。むしろ筆者が感じ取っていたのは地頭格差の方である。親がいくら手をかけても生まれ持った才能によって残酷なまでに差が開いていくのを目の前で見ていたのだ。見ていて気分の良いものではない。特に開業医の出来の悪い息子は最悪だった。生まれ変わっても開業医の息子には絶対になりたくないと思う。ただ、それでも早慶MARCHや医学部等に進学できた者は多かった。

 その後、筆者は超進学校に進学したのだが、ここに関してもやはり一般社会の平均よりは乖離していたと思う。小学校と違って過酷な中学受験を突破していた人たちの集団であるため、独特の競争的な環境だった。そのため「お坊ちゃん」感はあまり感じなかった。学者タイプの人間が多く、金に興味がないタイプが多いという要因も影響していたかもしれない。

 東大に入ってみると、世の中はもっと色々な出自の人間がいることを知った。地方出身といっても家が開業医だったり、資産家だったりという人間は多いのだが、それでも地方の中流家庭から何とか入学したという人間もいた。結構驚いたのだが、東大生の中にも親が高卒という者は1割弱ほど存在する。筆者は親が高卒という人物を人生でほとんど見たことがなかったので驚いた。東大に合格するのはなんだかんだ生まれ持った地頭が重要なので、別に高学歴の家庭でなくても適切なアプローチさえ取れれば頭の良い人は合格できるのだ。多数派ではなかったが、貧困家庭から奨学金を借りて何とか、という人もいた。

 経済格差とは別の問題かもしれないが、東大にはびっくりするほど僻地の出身者も存在した。限界集落で生まれ育った天才は結構いるのだ。どうやって勉強していたのかはさっぱりわからないが、相当な天才であることは間違いない。地方出身の学生の中には貧乏ぐらしの人も多かったが、貧困と貧乏暮らしは根本的に性質が違う。苦学生でバイト三昧だった知人は貧困家庭の出身どころか地場産業の社長の子供だった。彼はなんだかんだ一流企業に就職していった。

 というわけで、筆者は東大と経済格差に関してかなりズレた感覚で捉えることしかできなかった。東大は金持ちの集まりという風に言われているが、肌感覚では未だに良くわからない。むしろ裕福な家庭の子息が才能格差によって次々と沈んでいくのを目撃していたため、才能と努力の方に焦点を当ててしまう。

 ちなみに社会人になってみると、均質性はむしろ上がった気がする。会社の採用というのは結局「ウチの会社にいそうな人かどうか」という点に注目するので、自然と文化的背景が似た人間が集まりやすいようだ。下から慶応とか、事務次官の息子とか、そういった人間もしばしば目撃する。

 生育環境の影響か顔の造形がそうなのかはわからないが、筆者は(黙っていれば)お坊ちゃん風に見られる事が多い。自分ではこういったことは分からない。でも確かに昔の写真を見返してみると屈託のない笑顔を浮かべていることが多いので、印象は良いのかもしれない。社会に出てみると、頭脳面よりもこちらの方を評価されることが多い気がする。乃木坂でいう生田絵梨花とか、そういった系統である。生田絵梨花はまさに筆者の小学校にいそうなタイプだったし、多分受験していたんじゃないかと思う。同じ小学校だったら面白かったのだが。ちなみに筆者の大学時代は生田絵梨花の姉が在籍しているということが噂になっていた。

 育ちが良いと言えば聞こえは良いだろうが、実のところあまりにも温室育ちで来てしまった実感はある。ひろゆきがYouTubeで言っていたのだが、小学校くらいは公立を出たほうが良いとのことだ。「世の中の半分が偏差値50以下であること理解できる」らしい。筆者が偏差値50と思っていた人間は実際は偏差値60くらいだったらしいのだ。世の中の平均値は四谷大塚の合不合判定テストや駿台中学生テストよりも低いところにあるらしい。というか、世の中の半分は大学に進学しないとのことだ。筆者は老人を除いて人生で高卒の人間を見たことがないので、にわかには信じがたい。筆者の感じる(頭で考える、ではない)偏差値50は地方国立大学卒・地方銀行勤務・年収800万である。婚活における「普通の人」と同じくらいだ。

 世間を知らないまま、奇跡的な運の良さでここまで育ってきてしまった。それが良いことだったのかはわからない。小学校受験組の同級生も大体は受験で挫折するなどして成長するはずだが、筆者は何の苦労も努力もせずに通り抜けてしまった。清潔すぎる環境で育つとアレルギーになるように、筆者の躓いた要因もこのあたりにあるのかもしれない。筆者の以前の同僚にロスジェネから這い上がった苦労人がいたのだが、筆者とは覚悟もガッツも何もかもが違っていた。本来の意味で「世間擦れ」していた。きっと彼から見た筆者は軟弱極まりない駄目人間に見えたに違いない。また、こうした経緯により、人生のレールを外れることを病的に恐れるようになってしまった。レールを外れた人生がどんな恐ろしいものになるか想像もつかないのだ。

 ただ、筆者にとっては出身小学校は地元のようなものなので、否定はしたくない。公立小学校に通っていたら色々な社会階層に触れていたかもしれないが、別の要因で嫌な思いをしていたかもしれない。ここに関しては分からない。生田絵梨花がもし才能を開花させられずにサラリーマンとしてうだつが上がらない状態だったら筆者のような心境になったのだろうか。いや、流石に自意識過剰か。


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