医学部易化の要因に関する一考察
大学受験の最上位層のトレンドは東大理系の難化である。情報系を中心に理工系学部の偏差値上昇が止まらず、地方の医学部を追い抜いているとのことだ。医学部は易化が進んでおり、最近は地方の旧帝大レベルの国立医学部が存在するとも言う。
これはちょっと不思議である。医学部ほど安定した進路は他に存在せず、しかもこの先の日本において医学部とそれ以外の格差は広がっていく可能性すらあるからである。今回は医学部の易化の原因について探っていきたいと思う。筆者の見解でしかないが、通常言われている情報系の人気や景気の上昇は要因としてそこまで大きくないのではないかと思っている。
大学ヒエラルキーの際立った安定性
議論の前段階として、大学受験のヒエラルキーが長年にわたって変化していないことを確認しておきたいと思う。国立大学のヒエラルキーは一番が東大、二番が京大であり、その下には旧帝大が続く。私立大学といえば早稲田と慶応である。こうした序列はなんと100年も変わっていない。この間、日本は敗戦や高度経済成長を経験し、以前とは全く違った社会になったはずである。鬼滅の刃の時代の大学ヒエラルキーが現在でも大きく変わっていないというのは本当に興味深い。株価は言うまでもなく、企業の就職人気や進学校のヒエラルキーもどんどん変わっていることを考えると、大学のヒエラルキーは社会でも最も安定性が高い序列付けかもしれない。これはハーバードのような海外の大学においても同様のようだ。
1950年代、東大が辞退者を多く出した時期がある。進学先を見ていると、慶応医学部や日医大が多い。医科歯科に進学した者も発見した。どうにもこの辺りの相場感は1950年代から今まで変わらないようだ。まだネットも新幹線も無かった時代である。大学ヒエラルキーは「変わらないのが当たり前」であり、大学の序列意識がいかに強固なものかが判るだろう。
大学の偏差値はどこまで実社会の動向を反映しているのか
一般に、三高で高学歴と高収入が別項目とされているように、経済的な成功と学業上の達成は別の世界のヒエラルキーとされている。筆者はしばしば東大卒のキャリアの貧困を考察しているのだが、これは教育機関とその先の職業人の世界が断絶していることが原因だろう。教育機関は教育機関で自律的に回っており、サラリーマンの世界の動向とはまた別だ。こう考えると戦前から大学のヒエラルキーが変わらないこともうなづけるだろう。
しばしば受験生がなぜ医学部のメリットを無視して東大に行くのかという考察も繰り返したが、理由は高校生や教師の学歴的価値観がどこまで行っても教育機関の価値観の延長線上だからだと思う。高校生の進路選択なんか、物理が好きだから理一とか、リーガルハイが面白いから文一とか、そんなものなのだ。社会を知っているはずの保護者であっても教育機関の価値観に引きずられてることが多い。そうでなければ中学受験は激化しないはずだ。
18歳の段階で自分が将来何になるかなんてわからないし、ましてや進路選択が迫られるのはもっと前の17歳とか16歳だろうから、尚更だ。就職人気企業がどこかとか、学部の就職実績がどうかといった事情は高校生の価値観に大して影響を与えない。ここに大学ヒエラルキーの強固さが加わった結果、実社会の動向とは大学の序列がリンクしなくなっている。
したがって、民間企業の給与アップとか、全国転勤制度の変化とか、終身雇用の崩壊といった経済界の動向を受験生がどこまで見ているのかは怪しい。仮に行きたい企業があったとしても、進路の予測不可能性が高すぎて17歳や16歳の生徒が判断できるとは思えない。
勤務医の過労問題に関しても、以前から結構知られていたのではないだろうか。2000年代は「ドクハラ」なんて言葉が流行ったし、産婦人科医の訴訟もニュースで取り上げられていた。2000年代の勤務医のイメージは今よりも良くなかったのではないかと考えている。「白い巨塔」がヒットした時期でもある。昭和の時代にはインターン反対闘争なんてものもあった。筆者の育った2000年代は医者が魅力的とは到底思えなかった世相だと思う。
東大理一難化の要因として人工知能などのブームが普通は挙げられる。確かにそうした側面は否めないものの、単独では力不足ではないかと思う。京大や東工大の情報系学科は医学部から大量の人間を引き抜くほど人数は多くない。それに似たようなブームはIPS細胞とか宇宙開発であっても生じるはずである。これらの進路が「食えない」ことは高校生は知らないし、人工知能に興味を持つ高校生にしても、事業会社でSEになることをイメージしているとは思えない。数学や物理といった学校の勉強の延長線上にある分野への興味で進学する人間も多いだろう。GAFAの給料が高いというだけで、情報系がヒエラルキーを変化させるだけの強い影響力を持っているとは思えないのである。
高校生の進路選択は学校の延長線上になりがちである。特に東大に行くような生徒は教育機関への適合度が高いから、尚更だろう。したがって、医学部の易化を招いた要因は企業やマーケットの動向は大きな要因ではないと考える。
それでは強固な大学間ヒエラルキーをも変えてしまう高校生でも分かる要因とは一体何か?筆者の考える要因は、景気動向や技術革新よりも遥かに影響を与えたあの事件である。
要因①:新型コロナウイルスのパンデミック
現在の理一難化が囁かれるようになったのはここ数年のことだ。少なくとも2020年代に入ってからではないだろうか。筆者はこの時期を算出するために「よはし」さんの記事を引用したい。
「よはし」さんの記事では高校生の進路選択を「文系」「理系」「医系」の3パターンに分類し、動向を調査している。優秀な高校生の進路となれば基本的にこの三択だろう。この記事をベースに理系人気がいつ始まったのかを考察することができる。
各年変動はあるが、理系の志望者は基本的に45%前後をウロウロしていた。理系の志望者が50%台に入ったのは2022年のことである。それ以来、動向は高止まりしている。
一方、医系の方を見てみよう。2019年を除けば理系と医系の志望者の動向は大体が一致している。2020年は隔年変動なのかファンダメンタルな変化なのかは分からないが、2020年代に入ってからは両者の動向が大きく離れていっていることは間違いない。
文系を考慮に入れるとやや面倒になる。文系の隔年変動の大きさを考えると、文理の変動はその年のセンター試験の難易度にも影響されている面が大きいだろう。例えば文系が大きく落ち込んでいる2015年のセンター試験は数学が史上最難と言われていたらしい。センター試験の点数で上位層の動向を図っているため、このような交絡因子が存在してしまうのだ。
理系だけで比較するとやっぱり2020年代に入ってからの理系と医系の乖離は目立っている。2020年のセンター試験(まだパンデミックは広がっていなかった)の動向が各年変動であるという点を認めてしまえば、2020年代の医学部不人気はパンデミックとほぼ同時期であるという結論が導き出せるだろう。
もちろん確実なことは言えないが、パンデミックの中で医療関係者の大変な働き方がクローズアップされたことで、優秀層が医学部を回避して理工系に進路を変更したと言えないだろうか。パンデミックはほぼすべての日本人の生き方を変えてしまったので、高校生への影響がchatGPTや働き方改革に比べて大きかったようにも思える。人工知能と東大理一の結びつきよりも、医学部と医者の結びつきの方が遥かに大きいことも影響しただろう。
株価と違い、人間の進路選択の速度は遅い。中高一貫校は「7年現象」というものがある。進学実績を出せている中高一貫校は、次の年に成績上位の小学生がその学校を受験し、7年後に効果が現れるというものだ。同様に、パンデミックの影響も数年単位で遅れて現れて来るだろう。投資家と教育機関の時間感覚は異なっており、医学部易化の要因を投資家が不思議がるのも無理はないだろう。
要因②:首都圏と地方の学力格差の拡大
もう一つの要因として、首都圏と地方の学力格差の拡大があるのではないか。例えば東大進学者の出身地を見てみると、首都圏の出身者がだんだん増加していることが分かる。
これだけでは首都圏と地方の学力格差を説明することはできない。単純に地方の学生が首都圏に来なくなっただけかもしれないからだ。しかし、京大の動向を見ると、その可能性は薄らぐ。
京大においても首都圏出身者の割合の増加は進んでいる。地方の学生が京大に行くようになったわけでもないようである。最近は研究力を評価されて、東北大も首都圏からの進学が増えているとのことだ。じゃあ地元の医学部か?というと、これも医学部の易化傾向によって否定されるだろう。
これらのデータを踏まえると、首都圏と地方の学力格差は拡大しているということが言える。実際、医学部易化といっても、医科歯科や千葉といった首都圏の医学部はあまり易化していない。医学部内部においても、首都圏と地方の格差は拡大している。医科歯科の学力は阪大医学部を上回っているし、北大や東北大の医学部は千葉大や横浜市大に比べて明らかに下だ。
首都圏と地方の学力格差が拡大すれば、必然的に医学部は易化する。なぜなら首都圏の医学部志向は全国で最も弱いからだ。首都圏には医者の他にも魅力的な進路が多数存在するし、目と鼻の先に東大が存在する。一方、首都圏の医学部は学費が高すぎたり偏差値が高すぎたり立地が悪かったりで、あまりいい大学がない。わざわざ地方に行くのはよほど医者へのこだわりが強い人間に限られるだろう。
成績優秀層の理工系志向が強くなったのは人工知能が魅力的だからというより、首都圏の生徒が成績上位層の多くを占めるようになったからではないだろうか。2000年代に比べると灘やラ・サールといった進学校は医学部志向が強まっている。地方の生徒が理工系に殺到しているという長期トレンドはあまり無さそうである。
まとめ
日本の将来像や今後のキャリア設計を考えると、医学部への進学は非常にメリットが大きいはずだ。現に医学部再受験を試みる人は以前の60倍にも膨れ上がっているらしい。それにも関わらず、医学部が易化しているのは謎とされていた。情報系ブームや働き方改革の影響が常に挙げられるが、こういった事情を理解できている高校生がどの程度いるのだろうか。医者が働き方改革の適応除外であることや、それが最近改正されようとしているといった細かい事情を知っている高校生は多くないと思う。大学ヒエラルキーが長期にわたって変わらないことを考えると、表面的な人気に左右されない、別の要因が存在しているのではないかと考えた。
2020年代に突如として出現し、高校生の進路を左右するレベルで影響を与えた事象はパンデミック以外に考えられない。「医学部に行くのは医者になるためだ」という事情は高校生でも明確に意識していると思われるので、パンデミック下での医療関係者の大変な働き方が騒がれていたことを合わせると、高校生の意識に変化が生じたことは間違いないだろう。パンデミック当初は医学部人気が下がらなかったことが議論されていたが、人間の新路選択は何年にもわたって続くものだから、株式市場やネットの記事よりも遥かにタームが長い変化である。このトレンドは2020年代半ばまで続くはずである。
もう一つの要因として、首都圏と地方の学力の格差拡大が挙げられる。首都圏は伝統的に医学部進学熱が弱い。成績上位者が首都圏ばかりで占められるようになれば、必然的に医学部の進学熱は低下することになる。こちらの要因はパンデミックよりも更にタームが長く、今後も維持される可能性が高い。
首都圏と地方の学力格差の拡大の原因については良くわからない。ネット授業等の普及で地方の人間にとっては有利になったはずである。それでも首都圏との格差が開いているのはどういうことなのか。頭の良い遺伝子を持つ人間が首都圏に引き寄せられてしまったのかもしれないし、少子化の影響で地方では競争が緩くなりすぎているのかもしれない。ここに関しては筆者は考察できていない。
これらの考察はあくまで筆者の思いつきであり、正しいかはわからない。やはり言われている通り、情報系に多くの高校生が魅力を感じているからかもしれないし、別の要因が絡んでいるのかもしれない。別のアイデアがあるよ!って人はコメントにどうぞ。