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【シリーズ労働を考える】業種間賃金格差はどうして存在するのか
当シリーズは労働市場の性質について論じてほしいというリクエストがあって執筆を始めたのだが、第一回でちょっと気合を入れすぎてしまった。もう少しペースダウンしたいと思う。
最近、椅子理論というのが流行っているらしい。筆者も似たような理論は考えていたのだが、どうにもキャッチーな名前が思いつかず、困っている。一応はシリーズ労働経済論という名前にしているが、何かいい名称があったら打ち出すかもしれない。今回は業種による賃金格差について考えてみよう。
労働者の賃金は能力ではなく、業種によって決定する
賃金水準は労働者の能力の影響より、業種の影響を大きく受ける。これが椅子理論の基本原理である。筆者はちょっと驚いたのは、自分の賃金水準が能力の結果だと思っている人間があまりにも多いことである。結構有名な話だと思っていたのだが、そう思わない人間も結構いたということだ。仕事上の競争に打ち込むタイプの人間は経済理論的考察にあまり興味がなく、眼の前の仕事の優劣に関心が向かっているのかもしれない。
ただ筆者の見解だが、椅子理論はレント(超過利潤)をもたらす椅子の話と純粋な業種格差の話が両方混ざっているようだ。そのため、理論的には汚くなっている。筆者は椅子というとどうしても椅子取りゲームを思い出すため、レントをもたらす椅子の話を想像してしまう。一方、椅子を純粋な業種格差と捉えると、実は椅子取りゲームは必要ない。望めばその業界に入っていけるだろう。ついていけなければ辞めるだけだ。
さて、賃金水準はどうしても業界によって影響を受ける。稼げる業界と稼げない業界があるのである。例えば賃金水準の高い業界として総合商社が挙げられる。一方、メーカーのサラリーマンはその半分以下だろう。大手であってもそうだ。しかし商社マンとメーカーの研究職がそんなに能力差があるかというとNOだろう。似たような成績で東大を出て就職したとしても、前者の年収は後者の倍なのだ。もっと悲惨なのは研究職で、日本のトップ頭脳が年収300万に耐え忍んでいたりする。彼らの同級生は医学部に進学して簡単に年収2000万に到達していたりもする。ここに能力差が関係ないことは間違いないだろう。
今回はレントに関しては考察しない。裁定による純粋な業種格差の方を考えることにする。なぜ世の中には稼げる業種と稼げない業種が発生するのだろうか?
裁定って何?
経済学には裁定という概念がある。これをまず説明する必要がある。
米の値段が愛知県で1000円、岐阜県で2000円だったしよう。この場合、米の商人は愛知県で米を買って岐阜県で売りさばけば1000円の儲けということになる。そうして米を愛知県から岐阜県に運搬する業者が増加し、岐阜県の米の供給は増加し、価格は下落する。いつしか両県の米の値段は等しくなる。これが最もシンプルな裁定である。
しかし、実際は両県の米の値段はイコールにならなかったりする。例えば愛知県から岐阜県への運搬費が400円だった場合、岐阜県での米の値段は1400円で下げ止まってしまう。(愛知県の米の供給は無限にあるとする)このように輸送コストや人件費などが原因で、裁定が行われても価格差は発生する。日本のガソリンが中東よりも高いのは、タンカーで日本まで輸出する費用がばかにならないからである。
このように、裁定が働いていたとしても、価格差は発生する。賃金格差も同じだ。それでは裁定が働いている状態で業種間賃金格差を生み出す要因について考えてみよう。
1.「大変さ」の違い
最も単純な要因はその仕事の大変さが違うというものだ。例えば危険を伴う環境で働く仕事は安全な仕事よりも賃金が高いだろう。日本の警察官は危険手当が付いているので、賃金水準は普通の高卒公務員よりも明らかに高い。時たま話題になるアラスカのカニ漁は半年働いて報酬は1000万を超すらしい。常に死の危険を伴う過酷で危険な仕事なので、賃金が高いのは当たり前だ。
大変さは眼の前の仕事に起因しているとは限らない。例えば医者になるには長期に渡る修練が必要なので、眼の前の仕事が楽だったとしても、過去の積み重ねを考えると「大変さ」は上だったりする。
原則として賃金は需要と供給で決まる。大変な仕事は同じ給料だと誰もやらないので、賃金を高めに設定して人を集める必要がある。社会主義国であっても大変な仕事の賃金は高めに設定されていた。「大変さ」それ自体を本源的な価値をみなす労働価値説だろうか。
2.興味の需給バランス
業種別の賃金を考えるうえで最も大事かもしれない。
職業選択というのは結構難しい。仮に賃金が高いと知っていても、興味のない業界には進まないという選択をした人も多いだろう。逆に興味のある仕事であれば賃金は安くても良いという人もいる。多くの人が興味を持つ業界ほど賃金は下落する。
例えば構造的に賃金が安くなるのはアカデミアだ。なぜならアカデミアで働きたいと思う人の人数が社会的な需要に大して多いからだ。研究者は子どもの夢でもだいたい上位に来るし、本当は研究者になりたかったという人も多いだろう。一方でそういった研究が産業として収益性が高いかと言うとそんなことはないだろう。むしろ国の税金でやっと運営されている。
業種別賃金格差の大きな要因となっているのが社会的需要と人々の興味の間のギャップである。ピアノを趣味として極めていて、それで飯を食ってみたいと考える人は多いが、ピアニストに金を出したいと思う人は少ない。だからピアノと言う業界では食っていくことが難しい。一方、証券営業は誰も興味がないけれど、社会的な需要は大きいので、賃金水準が高い。理系の場合は就職活動の段階で興味のない金融機関に文系就職するか、メーカーである程度自分の専攻、いや選好を満たすかを迷うことになる。
言ってしまえば、多くの人間がつまらないと感じたり、学んだことを活かせないと感じる業種ほど賃金が高いのである。これはブルシット・ジョブが「稼げる」仕事であることの最大の要因だろう。高賃金が稼げる金融やコンサルといった文系エリート職種の人間は本当に仕事がつまらなそうだが、これも高賃金の代償なのだ。逆に多くの人が趣味として楽しむような音楽や絵画といった領域ではほとんど生計を立てることができない。
3.養成機関の需給バランス
特に専門職に顕著だが、教育機関との需給バランスも考える必要がある。理系学部の学科を考えてみると、産業界での需要と必ずしも学科の定員がマッチしていない。産業界で需要があるような電子系の学科と、産業界でほとんど需要がないバイオ系や地球科学系の学科が似たような定員だったりする。本来なら偏差値の違いという形で両者の違いが現れるはずだが、大学の偏差値は経済的な市場価値とは違った原理で回っていることが多く、「食えない学科」であっても受験生がそれなりに殺到しがちである。理系が低賃金である理由の一つは理系学部が充実しているからと言えるかもしれない。ただそれが国策という観点でマイナスかというと、また話が変わってくるだろう。
大学だけではなく、司法試験のような資格の合格枠も同様である。こちらは仕事に直結するし、政治的にコントロールがなされているから、大学ほど需給ギャップは発生しない。それでも弁護士過剰問題のような問題は起きうる。合格枠の拡大によって弁護士の賃金は低下した。
4.ライフステージの不可逆性
大変さや興味の需給バランスに関しては当事者はある程度の納得感があることが多い。別の職種のほうが賃金が高かったとしても、自分の仕事よりも「大変さ」が上だったり、全く興味が湧かなかったりという具合である。しかし、ライフステージの不可逆性に関してはむしろ当事者の後悔が目立つ。
裁定は労働者が業種をまたいで移動することを前提としているが、実際はそのようには行かない。職業選択のチャンスは若い頃に集中しているからだ。初期時点では業種の選択の余地はあっても、それ移行は業種間の移動が不可能になってしまうことが多い。これが業種間格差の大きな原因になっていることもある。
例えば特定の業種のバブルが挙げられる。最近はコンサルがブームであるが、今後需要が現象するようになったら、コンサルが余ってしまい、賃金は低下するだろう。しかし、その時にはすでにコンサルになってしまった人間は移動ができなくなってしまうので、低賃金の業界構造が続くことになる。(あくまで仮定の話である)
若年者特有のバイアスというパターンもある。例えば東大VS医学部なんかがそうだ。経済的メリットは圧倒的に東大より医学部のほうが上だが、それに気づくのは大体が社会人になってからである。現在でも成績上位層の8割が東大に進学するのは、業種間賃金格差のミステリーを示す典型例となっている。
全部は説明できない
以上、これらが市場原理によって業種間の賃金格差が決定される要因である。しかし、実際は裁定だけでは説明がつかない賃金格差が多い。例えば大企業と中小企業の賃金格差や大卒と高卒の賃金格差は説明ができない。純粋な業種間賃金格差の他にレントの存在や、人的資本の問題が関係してくるからだ。また、そもそもなぜ個々人の能力差が賃金に反映されないのかという説明にもならない。
筆者の考察によれば「特権的な椅子」は業種間賃金格差の原理からは浮かび上がってこない。なぜならリターンの良い仕事は総じて大変だったり興味が湧かなかったりするからだ。外資金融とJTCの違いのようなものである。金払いは外資金融のほうが多いかもしれないが、過酷な勤務体制や不安定な雇用を考えると、「外資は外資で大変だよね」という結論に落ち着きがちである。こうした状態を「均衡状態」と呼ぼう。
均衡状態で有利になる形質
これらの考察によってレントの発生を観念しない均衡状態の場合、社会人として有利になる形質が浮かび上がる。それは「供給過小の業種に興味を持つこと」である。例えばピアノに興味を持ったとしても、供給過多になっているから、稼ぐことはできない。ところが他の人が興味を持たないような「つまらない仕事」に興味津々という奇特な人間がいたら、労働市場では圧倒的に有利になってくる。これが不思議なことなのだが、組織論や政治と違って経済の原理ではマイノリティであることは有利なのである。
また、感覚的なわかりやすさを重視したために「大変さ」と「興味」を別に分けたが、ここは一つにまとめることも可能である。というか、労働経済学ではここはひとまとめに「不快感」とされるようだ。「大変な仕事」も「興味のない仕事」も同じ要因ということである。もし大変な仕事を苦にしないような奇特な人がいれば、その人は均衡状態において大変な優位に立つことになる。
もう一つ、情報感度も重要だ。自分の効用を最大化する進路をなるべく初期のうちに見定めなければならない。国が枠を過剰に設定しているような業種は需給バランスが崩れるため、賃金水準が低下してしまう。大学の専攻は偏差値ヒエラルキーや学校教育の延長としての興味で決めてしまう人が多いが、これも情報感度を高めて回避することが重要だ。なんとなく物理より生物が好きという理由でバイオ系の学科に進学してしまい、低賃金のピペドになる人間は後を絶たない。眼の前の瞬間最大風速に惑わされないという点もある。例えば初任給の多さで外資系を選んでしまう者がいる。しかし、長期的な安定性を本当に見込んでいるのかは疑問だ。
黄金の椅子を探す
ここまで書いてきた範囲によると、どの仕事もそれなりに大変なところがあり、特権的な椅子はなかなか存在しない。しかし、読者の皆さんが知りたいのはおそらく特権的な椅子のほうだろう。
「特権的な椅子」はレント(超過利潤)の発生によって均衡状態から予測されるよりも明らかにリターンが大きいポジションだ。ここに入るには激しい椅子取りゲームを勝ち抜くか、少なくとも高度な情報感度が必要だ。
例えばそのような特権的な椅子の典型例として医師が挙げられる。今まで様々な社会人を見てきた経験から、医師には確実にレントが発生していると思う。医学部入試が加熱しているのは、医師国家試験や初期研修といった「大変さ」よりも医師になったときのリターンが明確に大きいからである。医学部入試の競争はユーチューバーやピアニストのそれとは性質が異なる。それはレントが発生する黄金の椅子を奪うための争奪戦なのだ。医師免許は黄金の椅子に付随する特徴をかなりの範囲で満たしているため、非常に議論しやすい。このあたりの考察は別の機会にしよう。名前は「黄金の椅子理論」とでもするか。