<地政学>欧州の火薬庫、ユーゴスラビアの建国と滅亡について考察する
今回はリクエストにあったユーゴスラビアの地政学を取り上げたいと思う。この国は第一次世界大戦後に生まれ、2000年代のモンテネグロで消滅した国だ。実質的には1990年代のユーゴ紛争で崩壊したと言って良いだろう。ユーゴ紛争は1990年代になっても欧州で内戦が発生しうることを示し、衝撃を与えた。この地域は100年前から変わってないじゃないかというものである。
しかし、紛争国家のユーゴスラビアにも輝いていた時期はあった。冷戦時代のユーゴはそう悪い時期では無かったのだ。今回はそんなユーゴスラビアの地政学について考察したいと思う。
バルカン半島の後進性
バルカン半島、この言葉は大変イメージが悪い。旧ユーゴ諸国もこの言葉を使わないでほしいと言っているくらいである。バルカン半島といえばイコール紛争であり、これは100年前から変わらない。バルタン星人の由来になったのもバルカン半島だ。
バルカン半島は欧州と中東の境界地帯である。北西のドイツ系諸国と北東のロシア、それに南東のトルコに挟まれ、緩衝地帯としての歴史を辿ってきた。
バルカン半島の特徴はこれほどの文明地帯に挟まれながら、バルカン半島自体には文明が伝わらなかったことにある。ギリシャで花開いた文明はバルカン半島を素通りして、イタリアへ向かってしまった。中世になってヨーロッパが文明化された時も、それが起こったのはドイツやフランスで、バルカン半島には及ばなかった。ビザンツ帝国とヨーロッパ世界の中間にありながら、どちらの世界からも辺境だったのだ。したがってギリシャという例外を除いてバルカン半島は古代史や中世史にはほとんど登場しない。
この地域を統一してそれなりの安定をもたらした帝国がオスマン帝国である。オスマンの平和は500年も続いた。この時期のバルカン半島はそう悪い時期ではなかった。モンテネグロなど手に負えない民族もいたが、セルビア人やルーマニア人は大人しくオスマン帝国に従っていた。
19世紀になると長寿帝国のオスマン帝国といっても流石に衰退が顕著になってきたため、次々と独立運動が起きるようになった。最初に独立運動が起きたのはギリシャだ。英仏は「ギリシャ」という文化的な響きが原因で独立運動を道義的に支援し、オスマン帝国は敗北した。これ以降、オスマン帝国に対してバルカン半島のスラブ人も反乱を起こすようになった。これは同じスラブ系のロシアが南下政策を狙い支援していたことも関係している。
20世紀初頭になるとバルカン半島には多数の独立国が生まれた。その中のいくつかは異常に好戦的だった。こうしてバルカン半島は不安定化が進み、ヨーロッパの火薬庫となる。詳しい経緯を説明しているとキリがないが、とにかく揉め事が多かった。そしてバルカン半島の紛争が第一次世界大戦に繋がることになる。
バルカン半島の特徴で押さえておく点は主に2つだ。
1つ目はこの半島がヨーロッパにありながら、非常に貧しいことだ。先進諸国はもちろん、スペインやロシアよりも遥かに貧しかった。今でもバルカン半島の国は一人当たりGDPが中国以下だ。トルコにも大差を付けられている。伊藤博文はセルビアのことを「バルカンの山猿国」と呼んでヨーロッパ扱いしなかった。
2つ目はこの地域が民族的に多様で、しかもお互いが極めて仲が悪いことだ。クロアチア人とルーマニア人はカトリックを、ブルガリア人とセルビア人と、アルバニア人とボスニア人はイスラム教をそれぞれ信じていた。セルビア人とクロアチア人とボスニア人は同じ言葉を話し、同じ地域に住んでいるのに、お互いを憎悪していた。ブルガリア人とセルビア人は同じ宗教を信じているのにやはり深刻な対立をしていた。お互いの政治的立場も大きく違った。クロアチア人はハプスブルク帝国に協力的だったし、セルビアはロシアに親近感を感じていた。アルバニアはオスマン帝国が衰退すると孤立した。ブルガリアはスラブ系の正教国家だったがドイツに接近した。
バルカン半島は貧しく、血生臭く、あまりにも複雑で誰の手にも負えなかった。欧州のアフガニスタンと言っても良い。これがバルカン半島なのだ。
第一次世界大戦とユーゴスラビア建国
バルカン半島は第一次世界大戦の引き金となり、激しい戦争が戦われた土地である。セルビアは人口の2割近くを失ったとも言われる。セルビアは旺盛な士気により必死で戦闘し、当初はオーストリアを退けたが、最終的にブルガリアの参戦で滅亡し、占領状態に置かれることになった。残党はギリシャのサロニカに撤退し、連合軍の保護を受けた。連合軍はギリシャに上陸し、オーストリアとブルガリアの軍隊を引き抜いた。
結局、第一次世界大戦でオーストリアとブルガリアは敗北し、地域は連合軍によって解放されることになる。ここで問題が発生した。当時のヨーロッパでは国民国家の考え方がブームだったが、民族構成が複雑なバルカン半島はどのように国境を引けば良いのだろう?
連合軍の答えは「スラブ人の民族をひとまとめにして統一国家にする」というものだった。ユーゴスラビアとは「南スラブ」という意味である。いかにも観念論によって生まれた国という印象だ。ただ当時は民族主義が流行っていたし、セルビア人もクロアチア人も建国を歓迎しているところがあった。オーストリアやオスマン帝国といった旧態依然とした帝国から解放され、新しい国造りに希望が持てた時期と言えるだろう。当時はNATOやEUが無いので、小国が分立しても自立不可能と思われており、だったら少しでも大きな統一国家を作ろうという話である。
新しく建国されたユーゴスラビアにはセルビア王室が君主として就任することになった。モンテネグロの王家は無視され、亡命を余儀なくされた。何と勝手な話だろうか。セルビア王家はオブレノビッチとカラジョルジェビッチという2つの王家が存在したのだが、採用されたのは1903年にクーデターで権力を掌握したカラジョルジェビッチの方だった。
建国されたユーゴスラビア王国はすぐに問題が発生した。クロアチア人とセルビア人の仲がとにかく悪いのである。クロアチア人はハプスブルクの支配が大変快適だったことに気が付き、新しく生まれたユーゴスラビアに幻滅を覚えた。ユーゴスラビアは建国の経緯からしてセルビア主導で、クロアチア人は自国よりも遅れた集団に支配されることになった。ユーゴスラビアの国王は独裁体制で国を安定させようとするが、1934年に暗殺された。建国当初からこの国は極めて不安定だったのだ。
第二次世界大戦とチトー
第二次世界大戦でユーゴスラビアは再び苦難の歴史を体験する。第二次世界大戦でユーゴスラビアはイギリスと組もうとしたため、激怒したナチス・ドイツがバルカン半島に電撃侵攻した。ユーゴスラビアは10日で陥落し、王室はイギリスに逃亡した。
ユーゴスラビアは枢軸軍に分割支配されることになったが、間もなく大量殺戮が始まった。クロアチア人はウスタシャという組織を作り、ナチス・ドイツに全面協力した。クロアチア独立国というナチスの傀儡国家によってクロアチア人過激派は民族浄化に取り掛かる。クロアチア人のセルビア人い対する攻撃はジェノサイドそのもので、30万人もの人々が虐殺されることになった。
対するユーゴの抵抗組織はというと、これまた問題があった。チェトニックと呼ばれる抵抗組織はセルビア民族主義に染まっており、クロアチア人を虐殺することばかり考えていた。チェトニックは正規軍の残党だったはずなのだが、いつの間にか国家や王室ではなく、セルビア人の利害を代表する組織になっていた。ナチス・ドイツはあえてチェトニックを見逃し、ウスタシャと争わせていた。
第二次世界大戦中のユーゴスラビアはゲリラ闘争が盛んだった。理由は山がちな国土と、ドイツが十分な兵力を投入できなかったことにある。ナチスドイツの戦線拡大は過剰であり、細かいところまで手が届かなかったのである。
こうした事情を受けてもう一つのゲリラ組織が誕生した。チトー率いるユーゴスラビア共産党である。この集団には一つの強みがあった。共産主義は民族を問わないので、どの民族からも兵力を集めることができたのである。チトー自身もクロアチア人とスロベニア人のハーフだった。ウスタシャとチェトニックが殺し合いを繰り広げている側でユーゴスラビア共産党は戦力を拡大していた。以前の記事でも述べたが、共産党は戦争になると本当に強い。ユーゴ共産党は規律がしっかりしており、住民からの評判も良かった。
1944年になるとドイツ軍はもはやバルカン半島の支配を維持できなくなり、撤退を始める。今がチャンスとユーゴスラビア共産党は一斉攻撃を掛け、国土の大半を解放した。もはやウスタシャやチェトニックの出る幕は無かった。こうした共産党はユーゴスラビア全土を解放し、戦後の社会主義国家を構築することができた。
第二次世界大戦でユーゴの人口の10%が死亡したと思われる。独ソ戦を除けば一番酷い。しかしこの戦いはユーゴにとって誇らしいものだった。チトーは解放の英雄として絶大な支持を受けることになり、共産党に対する忌避感は大幅に緩和された。
チトーのユーゴスラビア
ここで重要なのはユーゴスラビアがソ連の助け無しに自力解放を成し遂げたことだ。これにより、ユーゴはソ連の衛星国になることを避ける事ができた。共産主義国なのにソ連に逆らうというのは奇妙だが、これが共産圏の始めての分裂となる。チトーはソ連との戦争に備えて国中に要塞を作り、国民に銃火器を配布した。ソ連とユーゴが断絶したことで困ったのはギリシャ共産党だ。ユーゴ経由の支援物資が入らなくなり、ギリシャ共産党は内戦に敗北した。
冷戦時代のユーゴはソ連に従わなかったが、西側と露骨に組むことも避けていた。そんなことをすればソ連が激怒するからだ。ユーゴは単に自立したかっただけなので、中立路線を歩んだ。ソ連も中立なら良いだろうと諦めた。ユーゴは米ソ衝突の正面から外れていたため、中立を守る余地があったのだ。むしろ緩衝国として安定に寄与していたようだ。お陰で冷戦の緊張は東西ドイツに集中し、イタリアは比較的平穏な冷戦を過ごすことができた。
ユーゴスラビアはソ連と断絶したこともあって、ソ連とは異なった路線を辿ろうとした。自主管理社会主義と呼ばれるユーゴスラビアの社会主義はソ連よりも緩やかなものだった。したがってユーゴスラビアはソ連よりも自由で繁栄することになった。この時代のユーゴは比較的豊かだったので、「ユーゴノスタルジア」なんて概念も存在するくらいだ。1960年代になるとアルバニアがユーゴと対立して独自路線を歩むが、こちらは超教条主義国家となった。ユーゴのそのまた逆を行こうとしたのだろう。
チトーは自由を大幅に認めていたが、一つだけ断固として弾圧した勢力があった。それが民族主義者だ。もし民族主義をわずかでも認めればユーゴ国家が四分五裂することをチトーは分かっていた。ユーゴ国民もチトーの言うことなら仕方がないと認めていた。冷戦時代のユーゴは民族融和が進み、民族間の結婚は当たり前となった。もともと大した文化の違いは無かったのだ。
ここでユーゴスラビアの民族構成をまとめておこう。ユーゴスラビアには6つの共和国があった。スロベニア・クロアチア・ボスニア・セルビア・モンテネグロ・マケドニア、である。セルビアの中には更に自治共和国としてコソボとヴォイヴォディナが存在した。これらの国の民族構成は複雑で、民族問題が発生したら極めて危険になることは明白だった。
ユーゴスラビアの崩壊
ユーゴスラビアは冷戦終結に伴い崩壊し、悲惨な戦場となる。なぜそうなったのだろうか。これには明確な地政学的必然性が存在する。
ユーゴ崩壊の要因として最初に挙げられるのがチトーの死去である。チトーの死後に指導力を発揮できる指導者がユーゴには現れなかった。国家指導者は各共和国による輪番という事になったのだが、これは中央政府を弱体化させるだけだった。
それよりさらに重大だったのが冷戦終結とソ連の崩壊である。これにより、ソ連という外敵がいなくなったので、ユーゴスラビアは共通の敵を失った。オスマン帝国の衰退でオーストリア帝国が弱体化したのと似ている。
同時に共産党のイデオロギー的な正当性も無くなってしまった。これまた問題だ。共産主義の失墜で求心力をなくした国家には民族主義が穴埋めとして現れることが多い。ユーゴスラビアという国家を支える屋台骨が無くなってしまったので、もはや民族主義を止められる人間はいなくなっていた。
そしてトドメを指したのはミロシェビッチである。彼はセルビア共和国を掌握するとセルビア民族主義を押し出した。彼にユーゴスラビアという多民族国家を支えようという気は毛頭なかったようだ。こうして内戦が始まった。ユーゴスラビア紛争の全容は複雑だが、基本的な構造はセルビア人VSそれ以外である。
ユーゴスラビア紛争の第1段階はスロベニアとクロアチアの独立戦争である。両国がユーゴという泥舟に留まる理由は無かった。両国はセルビアよりも豊かであり、ドイツと関係が深かった。両国は独立とともにEUに入る算段だった。したがって、ユーゴが不安定化すると即座に独立を宣言した。ドイツは独立を勝手に承認し、ユーゴの解体に歯止めが掛けられなくなった。もしここでドイツが思いとどまっていたらその後の展開は大きく異なっていたかもしれない。
スロベニアは国内にセルビア人が少なかったことと、クロアチアが盾になったことで紛争は早期に終結した。問題はクロアチアだ。クロアチア領土内には多数のセルビア人が居住しており、彼らはセルビアと組んで独立に反対し、内戦が勃発した。クロアチアは彼らと4年に渡って戦争を行わなければならなかった。
第二段階はボスニア内戦である。ボスニアではイスラム教徒のムスリム人とクロアチア人とセルビア人が分離不可能なくらいに混在していた。ムスリム人はもともとボスニア人と呼ばれていたのだが、政治的な事情でムスリム人という奇妙な名称で呼ばれることに鳴った。ボスニアでも突如として民族間の紛争が開始し、隣近所が殺し合うことになった。ミロシェビッチに支援されたセルビア人武装勢力は虐殺行為を繰り返した。悪名高いスレブレニツァの虐殺では9000人ものムスリム人が虐殺された。ボスニアの人口が400万人であることを考えるとかなり大規模である。ボスニアでは人口の2.5%が死亡したと推計されている。現代ヨーロッパとは思えない野蛮な戦争だ。サッカー日本監督のイビチャ・オシムやハリル・ホジッチはこの時に国に帰れなくなった。
第三段階はコソボ内戦とマケドニアの独立である。コソボはセルビア共和国内の自治共和国とされており、セルビアは独立を認める必要は無いと主張していた。コソボはセルビア人にとって重要な史跡があったことも関係した。コソボの多数派を占めるアルバニア人は独立のために蜂起を始めた。これにミロシェビッチは徹底弾圧で応えた。ここでNATOが介入する。ヨーロッパのお膝元で内戦が勃発するのは許さんということだった。NATOの空爆に恐れをなしてセルビアは譲歩し、コソボはNATOによって独立状態になった。コソボはスロベニアやクロアチアとは逆にユーゴの中でも最貧地域であり、新生コソボ国家は山賊まがいの団体が牛耳ることになった。ドサクサにまぎれてマケドニアはいつの間にか独立していた。マケドニアでもアルバニア人との間に内戦が起こる気配があったが、こちらは平和裏に和解し、事なきを得た。危ないところだったと思う。
最後に残ったのはセルビアとモンテネグロだった。近代において山岳ゲリラ民族だったモンテネグロだが、なぜかユーゴ紛争の時は穏健派だった。ただ、そのモンテネグロもセルビアについて行っても見込みがないと判断し、セルビアから平和裏に独立する。
現在、バルカン半島でセルビアは完全な孤立状態にある。周囲を囲むクロアチア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアはNATOにもEUにも加盟している。アルバニアとモンテネグロはEUには加盟していないが、NATOには加盟している。ボスニアとコソボはNATOの事実上の保護国だ。となると、地域で西側に敵対しているのはセルビアだけとなる。まさに四面楚歌だ。セルビアはコソボ問題で未だに西側に敵対しているが、手も足も出ない状態である。ロシアはコソボ問題で介入しようとしたが、弱すぎて何もできなかった。コソボを一方的に西側が独立させたという被害者意識がロシアに同様の手段を使わせる要因となった。少なくともプーチンの脳内ではそういうことになっている。
分離独立の地政学
ユーゴスラビアという国に関する疑問は、なんでこんな分裂した国が存在したのかという点だ。
その背景には小国の分立が非効率極まりなく、なるべく避けるべきだという考え方がある。実際、小国分立は安全保証面で不利だし、商取引にも障害となる。純粋に軍事的・経済的なメリットだけを考えるなら、帝国支配が最善なのだ。
戦間期のユーゴが小国分立状態であれば、ハンガリーの復活を阻止するという連合国の目的達成は難しくなるだろう。チトーがソ連を撥ねつけて中立路線を守ったのも、ユーゴがそれなりの規模のある国家だったからだ。ユーゴが豊かで自立した国になるには統一は不可欠だと思ったのだ。
それなのに、なぜ世界には無数の分離独立運動が存在するのかという疑問が湧く。その一番大きな要因は権力は単なる富を得る手段ではなく、それ自体が人間にとって目的になりうるからだ。大国の一部になるとメリットがあるが、そのかわりに自己決定権は奪われる。要するにサラリーマンかフリーランスか問題に近い。コソボが独立すれば経済的なデメリットがあるかもしれないが、コソボのエリートは国家の指導部に入ってやりたい放題ができるだろう。中央政府にヘコヘコする必要はない。分離独立運動で最も得をするのは彼らである。結局は権力闘争なのだ。
ユーゴスラビアが安定した国として存在したのは冷戦体制という危機感があったからだ。ソ連の圧力があったからこそ、ユーゴスラビアは団結することができた。この圧力が無くなると同時にユーゴスラビアはバラバラになってしまった。ソ連・チトー・共産主義の3本柱が同時に消失したことでユーゴ国民は国家の存在意義がわからなくなってしまった。
スロベニアとクロアチアはセルビアよりも豊かだったため、セルビア人の支配を受けることにメリットを見いだせなかった。しかもヨーロッパにはEUがあるではないか。両国にとっては自国より貧しいセルビアに支配されるよりも、豊かなドイツに支配される方が魅力的だった。小国はパトロンなしに存続できないが、どのパトロンに付くかの選り好みはある。スロベニアとクロアチアはEUへの加盟をすれば小国でも大丈夫だと判断し、分離独立に踏み切った。彼らが行ったのは独立というより移籍かもしれない。
一方、貧しい地域の場合は喜んで支配を受け入れる場合と、支配を嫌がって分離独立運動を行うケースに分かれる。コソボはこのパターンに当たる。貧しい地域が独立してもデメリットが多いようにも思えるが、実際は貧しい地域は不満が渦巻いており、自分たちの問題は中央政府の不当な迫害が原因だという認識を持っていたりする。
残念ながら貧しい地域が独立してもうまく行かないことがほとんどだ。一応独立は果たしたものの、コソボの政治は山賊まがいの連中が動かしており、どう見てもまともなヨーロッパ国家には見えない。コソボの分離独立運動は隣国アルバニアから支援を受けられることも大きいのだろう。
分離独立運動の結果、EUに加盟できたスロベニアとクロアチアを除き、旧ユーゴ諸国の経済力は低下した。特に中心地から滑り落ちたセルビアの没落は激しかった。確かにユーゴ解体に反対したのは無理もないだろう。セルビアに限らず、何らかの経済圏の中心にいることは経済的なメリットがある。世界経済に対するアメリカや、EUに対するドイツがそうだ。お陰で両国の一人当たりGDPは他の先進国よりも頭一つ高い。
ボスニアは独立して良いことなど一つもなかった。ただ仲の良かった隣人が殺し合っただけだ。ボスニアは国民国家の中核となる民族が存在しなかった。むしろ切り分けが難しい地域を「その他」としてまとめたような共和国だった。ボスニアの独立は状況に流されて勝手に決まったという面が強く、独立自体に無理があったのだ。
まとめ
今回はユーゴスラビアの地政学を論じた。戦間期のユーゴスラビアは列強によって人工的に作られた国であり、まとまりは乏しかった。東欧の貧しい小国でしかなかった。冷戦期のユーゴスラビアは大戦を戦い抜いた猛者であり、本物の国民国家になりかけていた。しかし、その結束は思いの外に脆かった。ユーゴスラビアを支えていたのは「ソ連の脅威」・「チトーの権威」・「共産党の独裁」であり、この3本柱を失うとあっという間に崩壊の道を辿った。
分離独立運動を促したのはEUの存在が大きかった。スロベニアとクロアチアにとっては明らかにユーゴに留まるよりもEUに入ったほうがメリットがあったからだ。一方でコソボのように貧困地域にも独立運動は起きた。コソボは現在に至るまで腐敗した貧困国のままであり、EUへの加盟は不可能である。
世界には分離独立運動が正義のような風潮があるが、これが良いことなのかは分からない。軍事上・経済上のデメリットが大きいからだ。ジェノサイドやアパルトヘイトが横行していたら別だが、多くの場合は一国一城の主になったこと以外はマイナスである。だから国家は自国の分離独立運動はもちろん、他国の分離独立運動にも時に冷ややかなのだ。例えばスペインは西側なのにコソボを承認していない。そんなことをすればバスク地方やカタルーニャ地方の独立運動にお墨付きを与え、スペイン国家が分裂してしまう。
分離独立運動に明確なメリットがあるのはその地域が相対的に豊かで、かつ別のパトロンを得られる場合に限られる。ユーゴの場合はスロベニアとクロアチアがそうだった。他の国に視野を広げると、中国に対する香港やソ連に対する東欧諸国が挙げられるだろう。これらの国は帝国支配を抜け出して西側と合流すれば現在よりも良い暮らしができると確信しているので、帝国に対するリスペクトは一切存在しなかった。
ユーゴスラビアの特徴的な点はこの国が一応ヨーロッパに所属していることである。1990年代のヨーロッパに武力紛争が起こるなど、なかなか信じられない。これはユーゴスラビアがヨーロッパに位置していながら発展途上国だったことが原因とも言えるし、ヨーロッパの国が戦争をしないという観念自体が誤謬であるとも言える。どちらが真実かはわからないが、バルカン半島が欧州で最も不安定な地域であることは事実である。