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女性が台頭すると王家に必ず内紛が起こるという話

 世界史に名を残した女性は「悪女」とされることが多い。中国で大帝に等しい権力を握った三人の女性は中国三大悪女と呼ばれているし、似たような逸話は多い。 「雌鳥が泣けば家が滅びる」なんて格言も存在する。しかし女性の政治的台頭はなぜここまで嫌われるのだろうか。

 例外はあるが、世界の大体の文化圏で王家(並びにそれに準ずる諸侯や大名など)は男系主義が取られてきた。日本も同様で、現在皇室の男系主義は政治的な議論が巻き起こっている。
 王家というのは基本的に親の王位を子供が引き継ぐことで成り立っている。そのため最終的に息子が父の王位を受け継ぎ、男系親族のみが一族として記録される男系氏族主義で安定することが多い。その起源については以前の投稿を見てほしい。https://note.com/luciferlove/n/n3ab3a18552a8

 このような家族制度の下では女性の地位は低くなる。というのも女性が台頭すると男系親族同士の連帯が破壊されてしまうからである。「女は政治に口を出すな」という規範はこのような理由が一役買っていると思われる。今回は歴史的な具体例を挙げて男系王朝と女性の台頭の相性の悪さを検証していこうと思う。

女性は口を出すな!日本史編

 ケーススタディとして応仁の乱を挙げよう。応仁の乱とは足利義政の弟の足利義視と息子の足利義尚の後継争いである。義政自身は弟も息子も同じく血を分けた家族であり、どちらも大切な存在だ。
 しかし、義政の妻・日野富子に関してはそうではない。日野富子にとっては息子の義尚のみが血族であり、義視は余所の人だ。日野富子にとっては義弟の義視に譲歩するメリットが全く存在しないのである。女性が影響力を持ったことで男系親族に絆が破壊された良い例と言えるだろう。

 (なお日野富子は悪女とされるが、実際にどの程度害をもたらしたかは不明だ。応仁の乱の経緯はあまりにも複雑怪奇で、当時の人ですら理解不能だったらしい。
 驚くべきことに応仁の乱末期になると日野富子は「終結の功労者」のように扱われていた。日野富子=悪女という見方は多分に当時の男系氏族制度の価値観が入り込んでいるのではないか。)
 
 もう一つのケーススタディを挙げよう。同じく足利家の内紛が発端となった観応の擾乱である。観応の擾乱は桁違いに複雑なので細かい経緯は省略するが、一方にいたのが足利尊氏とその息子足利義詮であり、もう一方にいたのが尊氏の同母弟の足利直義と尊氏の隠し子の足利直冬である。
 足利尊氏にとっては当事者全員が血を分けた兄弟であり、刃を交えることを渋っていた。尊氏の優柔不断さはこの内乱の顕著な特徴になっている。
 しかし、足利尊氏の妻の北条登子についてはどうだろうか。足利直冬が反乱を起こした原因の一つが登子に嫌われていたことらしい。足利義詮も母の言うことを聞いてか直冬には敵対的だった。登子にとっては義詮のみが血縁であって直冬や直義はどうでもいい存在だ。応仁の乱と同じく女性の存在が男系血族の利害相反を強めてしまったのだ。
 また男系氏族制度の別の側面を見ることもできる。北条登子はその名からわかるように北条氏の出身であり、鎌倉幕府最後の執権・北条守時の実の妹である。第二代将軍の足利義詮は北条の孫ということだ。血縁の観点では北条の血筋は将軍家でありつづけたことになる。  
 しかし、この事実は余り重要視されていないし、北条氏の天下は鎌倉時代に終わった事になっている。足利義詮はあくまで女系子孫なので、北条氏ではない。ヨソの氏族の人間なのである。

 (ちなみに日本史の兄弟争いといえば源頼朝・源義経が浮かぶ人が多いだろう。しかし頼朝と義経は異母兄弟であり、成人するまでお互い面識がなかった。そのためせいぜい挙兵仲間という認識しかなかっただろう。一方で足利尊氏・足利直義は同母弟であり、年齢も一歳しか違わず、幼い頃から室町幕府の誕生までずっと一緒に戦ってきた。源氏の兄弟よりも遥かに絆が深かったのだ。観応の擾乱の際にも尊氏はずっと挙兵を渋っていたし、直義は終盤で戦意を喪失している。尊氏は敗北した直義を処刑しようとはしなかった。足利兄弟は誰よりも近い血族として、最後までお互いに刃を向ける気になれなかったのである。

女性は口を出すな!世界史編

 中国三大悪女として名高い女たちがいる。清朝末期に権力を振るった西太后・中国唯一の女性皇帝として知られる則天武后・そして漢の高祖劉邦の妻の呂后である。西太后や則天武后は後宮で出世していったのに対し、呂后はもともとただの主婦だった点で異彩を放っている。とりわけ数奇な人生を辿ったのだ。彼女が「女帝」となったのは夫の劉邦が戦乱の果てに皇帝となり、その水面下で権力を掌握したことによる。
 さて、呂后は漢王朝の乗っ取りを画策した女として悪名高い。呂氏は中華王朝の歴史で初めて台頭した外戚なのだ。呂后は劉邦との間に二人の子供がいる。一人は長女の魯元公主であり、もうひとりは二代目皇帝の恵帝だ。恵帝が即位すると呂后は次々と皇族を葬り去っていった。劉氏の皇帝家で呂后と血縁関係にあるのは恵帝だけだからだ。他の皇族は呂后にとって血の繋がらないライバルに過ぎない。
 しかし劉邦の庶子の一人の劉肥を毒殺しようとした際には恵帝が介入して暗殺に失敗している。劉邦の庶子は恵帝にとっては血の繋がった兄なのである。
 呂后は一族の者を次々と登用し、劉氏と呂氏は対等の一族であるかのように振る舞った。恵帝の死後はその子供の一人を幼帝として立て、呂氏は専横を振るった。幼帝にとっては劉氏も呂氏も等しく血族ということになるから心配はない。もっとも幼帝による統治は不安定であり、呂后の死後まもなく生き残っていた元勲によって呂氏は抹殺される。代わりに呂氏とは無関係の文帝が即位した。これは中国史では以降、お決まりのパターンとなる。

 (中国には同姓不婚というタブーがある。同じ苗字の人間同士の結婚は近親婚という扱いになるのだ。ところが名字が違う親戚との近親婚は許容されることがある。恵帝の皇后の張氏は前述の魯元公主の娘であり、恵帝の姪だ。しかしこの結婚は近親婚とはみなされなかった。中国で一族とは男系の血筋のことを指すのである。)

 一方で、則天武后の時代はこのようなことが起こらなかった。則天武后のあとを継いだ中宗は則天武后の実の息子であり、彼女と夫(三代皇帝の高宗)の血筋はそれ以降も滞りなく継承されたからである。したがって武氏も命脈を保ち、呂氏のように抹殺されることはなかった。また、則天武后が即位していた時代は厳密には唐ではなく周という王朝とされる。これも男系に厳格な王朝観念のあらわれであろう。もっとも則天武后は皇室の血縁ではないので継承権はなく、簒奪といえば簒奪である。女性ならではの誤魔化しともいえるが。

 しばしば女性宮家に対する反対意見の一つとして「悪い婿が皇室に入り込んだら皇室が乗っ取られる」という批判がある。
 
「婿による乗っ取り論」の背景には男性のみが政治的役割を果たすという前提がある。しかしこの前提が崩れたらどうなるだろう。もし男性同様に政治的能力のある女性が嫁入りしたら王朝は乗っ取られてしまうのではないか。そのような事例が世界には存在するのである。
 1762年、ドイツの小さな領邦君主の娘としてゾフィーは生まれた。彼女は小さい頃から聡明であり、成長して嫁に行く年齢になるとロシア皇太子ピョートルとの縁談が成立する。
 ゾフィーとピョートルは大人の事情で結婚したため、お互いに全く関心がなかった。そんなピョートルもついに即位し、ロシア皇帝ピョートル3世となる。彼は政治的には無能であり、軍隊ごっこに夢中であった。現代的な観点だと彼は発達障害だったのかもしれない。
 ピョートル3世は大貴族の支持を得られず、有力者は次第に皇后の方に期待するようになった。ついにクーデターが発生し、ピョートル三世は殺害された。ゾフィーはその頃にはロシア風に名前を変えていた。エカチェリーナ大帝の誕生である。
 権力を掌握し、偉大な女帝として讃えられるエカチェリーナ大帝だが、その性的関係は奔放で何人も愛人がいたようだ。彼女のあとを継ぐのは息子のパーヴェル1世だが、彼が誰の子供なのかはさっぱりわからない。もし彼がエカチェリーナと愛人との間の子供だったなら、ロマノフ家の血筋は嫁の乗っ取りによって滅びたことになる。

 王朝の正統性を重視する近代以前の史観で女性が悪者扱いされるのは理由がある。それは王朝が男系氏族主義を取っているからだ。女性が台頭すると男系の王族同士の結束が乱れ、紛争が起こってしまう。
 現代の政治ではこのような現象が起こることはない。現代社会は世襲制度で回っていないからだ。女性の政治参加は進んでいるし、そのやり方は完全に男性と同じなのである。
 


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