午後の日射し
花の24年組の大御所漫画家様たちの作品について、とりたてて詳しいわけではないが、時々読むとやはりその凄さに息をのむ事がある。
萩尾望都の作品はSF色が強い長編は個人的にあまり好みのテイストではない為全く読めていないが、彼女の良さはSF や耽美な作品だけでなく、ごく日常の話を描いた地味な作品にも十二分に発揮されている。
昔から好きな「イグアナの娘」の短編集。表題作ももちろん好きなのだが、中でもここに収録されている「午後の日射し」という短い短編がとても好きだ。
90年代初頭、42歳の主婦、賞子と、昔気質のダルマ体型の夫、思春期の息子と娘が一人ずつ。
ある日夫婦でワイドショーを見ていて、16年連れ添った芸能人夫婦の破局のニュースが報道されていた時に、賞子が夫に「16年も連れ添ってさっぱり別れられるものかしら」と問うと、夫「夫婦なんて、他人だよ。結局」と即答。それを聞いて「さあっと世界の色彩がはがれおちた」賞子の平凡すぎる日々に、ある日お料理教室で25歳のさわやかな男性、海部タツオと出会う。
こう書くと女を捨てきれない主婦と若い男の一時の情事的な作品と思われるが、そうではない。彼に肯定され、優しくされちょっと浮かれ「もし私が25歳だったなら」と考えたり、夫の悪い点と比較してしまったりもするが、一線を超えたりするわけではない。
主人公は賞子として描かれているがキーになるのは、思春期の娘、ひとみである。両親から「女の子だから」「女の子なのに」と言われつづけ、弟と比べられ、区別される事に苦しんでいる彼女の淡い恋と、そんな娘を見つつ、自身の若い頃と対比する。「女の子なんだから」と言われる事が当然とされてきた時代を生きてきた賞子の人生において、パートナーである夫から夫婦なんて他人だと即答され、そして夫とは全く違う魅力的な男に今の自分を肯定された事によって、今までの人生で諦めてきたものが見えてきてしまうのである。
彼女のモノローグでとても響くシーンがある。
「秋の長い午後の日射しが、ぼんやり射している。
鮮烈なまひるの陽が
くっきりとした影をつくり
我が身を射しつらぬいていた若い頃、
娘、ひとみのように
肌も、血も、心もたち騒いでいた若い頃
許すことがすくなくて、苦しかった若い頃
考えがぼやけて、境目がはっきりしない
今日までにいろんなことを諦めて
きたような気がする」
90年代初頭、まだ「フェミニズム」なんて言葉がほとんど浸透していない時代、「女の子なんだから、お料理しなさい、大学なんてそこそこで良いお嫁にいくんだから、育児家事がんばりなさい、夫を立てなさい、夫の実家を優先しなさい」が当然の価値観で、そういうものだと思って育ってしまった女性たちのちょうど娘世代の女性達の意識が、ほんの少しずつ、変わってきていた時代なのだと思う。
ひとみは「この家って男尊女卑!」と物申したり、「女房とタタミは新しいのがいい」というクソふざけたことわざを聞いて「ママは女のくせにと規定されて苦しんだことないの?」「ママ、男の人が浮気したらタタミは苦しまないけど、女は苦しむんだよ」と声を上げて世界に立ち向かおうとしている。
いわゆる「洗脳」されてしまっている賞子、それに立ち向かうひとみ、その姿を見てほんの少しずつ大切なものを思い出そうとしている賞子の姿を、絶妙に描き出している。「トーマの心臓」から萩尾作品に入った私は、こういう現実的な作品も描けるのか…すげえな…と感服した。
萩尾作品や、私の大好きな大島弓子作品などはモノローグ部分に使われる言葉がもう本当に文学そのものなのである。彼女たちの作品を読むと日本に生まれ、日本語話者である自分をちょっぴり誇りに思えるのだ。