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オスカー・ワイルドは引き摺り下ろされたのか 『ワイルド・グレイ』感想文

※青チームの感想文/ネタバレ過多/セリフはうろ覚え

『ワイルド・グレイ』は、2025年1月に日本初演を迎えた韓国ミュージカルだ。作品の舞台は19世紀ロンドン。規範意識の強い社会の中で、自由な芸術を追い求める作家オスカー・ワイルドを主人公に、ワイルドの友人にして元恋人のロバート・ロス、そしてワイルドの恋人であるアルフレッド・ダグラスの三者の人間関係が描かれている。

 この作品の中盤に、こんなセリフがある。

「それじゃあこうしよう。僕が望むものをくれるまで、彼を引き摺り下ろしてやる」

 これは、ロスの「ワイルドはお前の手の届かない高みにいる」という言葉を受けたダグラスが放ったセリフだ。宣言通り、この場面以降のダグラスは、ワイルドを堕落の道へと誘う。
本作を鑑賞しているうちに、ある一つの疑問が芽生えた。ダグラスは、真にワイルドを引き摺り下ろすことができたのだろうか、というものだ。

あらすじ
  ストーリーを説明することがなかなか難しい作品ではあるが、あらすじをざっくり説明すると以下のようになる。

  売れっ子作家のオスカー・ワイルドは、自身初の長編小説「ドリアン・グレイの肖像」を出版する。若く美しい青年が、その美しさを盾に堕落していく姿を描いた「ドリアン・グレイの肖像」の不道徳ともとれる内容には、多く批判が寄せられた。無視できない世間の声の大きさに、ワイルドは用意していたラストシーンを書き換え、ドリアンの死によって物語を完結させることを強いられる。不本意な結末ながらも小説は大ヒット。ワイルドはさらなる名声を手に入れる。
  そんな中、ワイルドの前にある一人の青年が現れる。名をアルフレッド・ダグラスというその青年は「ドリアン・グレイの肖像」の主人公ドリアンそのもののような姿をしていた。ダグラスはワイルドの胸に残る結末への後悔を見抜き、「なぜドリアンを死なせてしまったのか」と問いかける。彼の美しさと感性の鋭さにたちまち心を奪われたワイルド。二人はすぐに恋人となる。
  だが、父親から虐待を受けてきたダグラスは精神的に非常に不安定。我が儘で気性も激しく、彼と共にいることでワイルドは少しずつ磨耗していく。また、当時のイギリスにおいて、同性愛は殺人に匹敵するほどの大罪であった。ワイルドの友人・ロスは、ワイルドの身を案じ、正気に戻るよう何度も彼を説得する。しかし、ワイルドはダグラスから離れようとしない。それどころか、ダグラスに乗せられるまま、ダグラスの父親に対して裁判をふっかけてしまう。法廷に出れば男色罪の咎で捕えられてしまう、出廷せず逃げるべきだと必死に訴えるロス。法廷で愛を証明しろと焚き付けるダグラス。ワイルドの行く末は──

リフレイン
  ところで、本作はリフレインの多用が印象的な作品である。(一字一句同じ言葉を繰り返しているわけでは無いので、厳密に言えばリフレインの定義から外れているのは承知の上だが、ここでは便宜上リフレインと表記する)
  例えば『美しさとは』でワイルドが歌う「重力と時間の先に見える美しさ」というフレーズは、その後の『ワイルド・グレイ』のナンバーにも、形を変えて再び現れる。

「目と目があった瞬間に 時が私から離れ その日から迷子だ 今日も明日も」
「声かけられた瞬間に 空に浮き上がった 重力無くなり自由に」

 実は『ワイルド・グレイ』の歌詞に「美しさ」や「美」といった言葉は一度も使用されていない。その代わりに『美しさとは』で使用した単語を流用することで、ワイルドの目に映るダグラスの美しさ、そして、その美しさがワイルドの理想とする美にピッタリとハマっていることを、ワイルドの浮かれっぷりと同時に表現している。ものすごく秀逸で、技の光る歌詞である。
  本作ではこのように、場面を跨いで言葉同士を結びつけることで、セリフにさらなる意味や文脈を付与する技法が多く使用されている。こうしたセリフ同士の対応関係を見つけ出すことが、この作品を読み解く上での大きな鍵となる。

  多用されるリフレインの中でも、対応関係が一番明示的なのは、やはりこのセリフだろうか。

ダグラス「あんた、何者だ?」
ロス「観客でいたい人間だよ」

ロス「あいつは一体何者なんだ」
ワイルド「私を最後まで俳優でいさせてくれた、たった一人の観客だ」

  ワイルドの紡ぐ物語を愛していたのに、ワイルドの求める観客にはなれなかったロス。「あなたの芝居の中で一緒にいたかった」と泣いていたのに共演者にはなれなかったダグラス。それぞれへのアイロニーを感じるセリフである。
  ここで自身を「俳優」と表しているように、ワイルドは度々、自分の人生が戯曲であるかのように振る舞う。裁判の直前に差し挟まれるワイルドのソロ『エピファニー』に、そうしたワイルドの態度が顕著に表れている一節があるので引用したい。


“君だけが私を動かす この舞台 物語
物語が喜劇ではなく 悲劇に向かおうとも
幕が上がり劇が始まれば 止められない引き返せない
強く望む今の私を 最後までやり遂げたい
美しかった二人の物語 堕落へと向かうとしても
観客が去って 苦しみだけが残されている
この結末が 私を殺すとしても”

  この歌詞を見ていると、やはりワイルドの目には、ダグラスに手を引かれたその先にある破滅が常に映っていたように思える。それでも進み続けたその原動力は、ワイルド自身も口にしているように「私をやり遂げたい」という願いだ。規範に負けた『ドリアン・グレイの肖像』の時とは違い、今度こそ信念を曲げずに自分自身を全うしたい。そんな自己実現に対する宿願を果たすべく、奈落の底まで自らの足で歩んで行くワイルドの姿は、板の上で翻弄される役者というよりも、人生という舞台を取り仕切る演出家のように見えるなと個人的には感じている。

利用されているのはどちらか
  
『エピファニー』を踏まえた上で改めて考えたいのが、ドリアン≒ダグラス、ヘンリー≒ワイルドという見立ての関係だ。

  本作のストーリーは“若く、美しく、貴族”であるダグラスをドリアンに、小説によってダグラスに影響を与えたワイルドをヘンリーに当てはめたような構図で進行していく。また、ダグラス自身も自らを指して「ドリアンそのもののような人間」と言い、ワイルドをヘンリーに準えて話す。

  しかし、この構図には再考の余地がある。
  小説の中で、ヘンリーはドリアンを唆し、純粋だった彼を堕落させる。
対する現実。堕落した者は誰だろうか。家族も地位も名声も、築き上げてきた全てを失い投獄されたワイルドがその枠に当てはまるというのは、誰の目から見ても明らかであろう。そして、彼を堕落へ導いたのは他でもないダグラスだ。つまり、この「堕落」という側面における見立てはドリアン≒ワイルド、ヘンリー≒ダグラスという図に立ち位置が逆転しているのだ。
  さらに付け加えたいのが、『ドリアン・グレイの肖像』に関するワイルドの主張だ。この小説を読んだ多くの人間は、ヘンリーがドリアンを操ったのだと考えている。しかし、本当はドリアンこそヘンリーを利用している。人は皆、誰かのせいだったという言い訳が必要であり、ドリアンは堕落するための言い訳としてヘンリーを利用した。そうワイルドは語る。

  では、ワイルドはどうだろう。『エピファニー』で示されている通り、ワイルドの本懐は自己の、そして芸術の実現だ。堕落が待ち受けているとしても、どうしても成し遂げたい願いがそこにあった。ワイルドは、ドリアンは願望を一人で実行する勇気がないからヘンリーという言い訳を求めたのだ、とも語る。ワイルドがドリアンであるのなら、ドリアンと同じように、ワイルドもまた、堕落するための言い訳、延いては願いの実現のためのカンフル剤としてダグラスを利用した、そう考えることもできるのではないだろうか。

  じゃあダグラスの側に全く打算がなかったのかというとそんなことはなく、ダグラスもダグラスでやはり父への復讐、そして自己の救済にワイルドを利用している。
ダグラスは『サロメ』で「元々全ての愛はエゴなんだ!」と主張し、「私、ただお母さまに利用されただけじゃない。ヨカナーンが魅力的だったから!」と嗤う。互いに愛し合いながらも互いを利用しあっていたワイルドとダグラスの間で引用される『サロメ』は、非常に象徴的な戯曲である。

ラストシーン
  
「引き摺り下ろしてやる」を考えるにあたり、最後に振り返りたいのがラストシーンである。

  舞台は、ワイルドと恋人であったという記事に対し、名誉毀損の訴えを起こしたダグラスが法廷に立つ姿で幕を下ろす。法廷でなされるやりとりは実に衝撃的だ。過去、ワイルドに法廷で愛を証明してみせろと迫ったダグラスはしかし、いざ自分の番となると自身がワイルドの恋人であったことを否定する。これは一見、地位や財産を手放す覚悟のないダグラスの保身のように思える。が、彼の隣にワイルドを配すること、そして直前の『手紙』でダグラスに語りかけるワイルドという布石があることによって、この否定はガラッとその意味合いを変える。
 『手紙』の終盤。ワイルドはダグラスを見つめこう語りかける。

「泣くな、ボジー 笑うんだ 目を見て 私のドリアン」

  また、法廷でオスカー・ワイルドの恋人であったのか?と問われたダグラスは、返答する前に彼の隣に立つワイルドを見る。そして、微笑みながらゆっくりと首を横に振るワイルドに促されるまま「いいえ」と答える。
本来、この問いに対してダグラス自身が用意していた答えは、違うものだったのかもしれない。ダグラスはかつてワイルドに「あなたが死んだら僕も死ぬ」と話し、実際にワイルドの死後には「僕が望んでいた結末は、最初からこれだったんだ!」と言いながら自身の胸にナイフを突き立てようとする。そんなダグラスがここで「いいえ」と答えるのはいささか不自然にも感じられる。
元々ダグラスは、小説のドリアンと同じように、良心の呵責に耐えかねて死を選ぼうとしていたのではないだろうか。そんな彼を繋ぎ止めたのが、ワイルドの書いた手紙、そして先の「目を見て 私のドリアン」という呼びかけである。
ワイルドの愛と、自分がワイルドにしてしまった事に対して真っ向から向き合ったダグラスは、その愛に報いようと決意する。そうして、ワイルドの望んだ結末を体現してみせるべく、裁判に臨む。

  ダグラスは、道徳の前に膝をついて散ったドリアン・グレイの代わりに、嘘をつき、額縁の中で微笑みながら、ワイルドの望んだドリアン・グレイとして生き続ける。ダグラスの口にした「いいえ」こそワイルドへのこれ以上ない愛の言葉であり、この否定は二人の間でしか通じ得ない「愛してる」の符号なのだ。作中序盤のナンバー『ドリアン』での「僕を見て ここで生きてあげる」を最後の最後に回収してくる構成が実に素晴らしい。
  アルフレッド・ダグラスは、決してオスカー・ワイルドを引き摺りおろしてなどいない。むしろダグラスこそ、時に無情なまでにワイルドを舞台の上へと引き上げ続け、最後には彼の望んだ結末を完成させることで、ワイルドを芸術という高みに押し上げた人物なのだ。

  ただ、ダグラスも初めから一貫して覚悟を決めていたわけではない。ダグラスは常に愛と保身との間で揺れ動き、身勝手にワイルドを切り捨てすらする。その弱さや、揺れ動く心の様子、そしてエゴと愛の入り混じった二人の関係。こうした白黒つけられない心の機微が、まさしくグレーで実に人間らしいと感じた。

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