愛の形とは?コミュニケーションはボールの投げ合い
年度末から忙しく、毎日3〜4時間の残業でクタクタだった。
同じプロジェクトをやっていた上司が入院してしまい、一人抱えること10日。
ついに起き上がれなくなった。
頭が痛い。身体が重い。
こんなに頑張ってるのに、うまくいかないことばかり。
鬱々としていて、「うまくいかない」ことを書き出して感じて寝ていた。
娘も春休みで家にいたが、食事の準備もしてやれず、一人でおやつを食べたりしてしのいでいた。
娘の習い事の日でもあったけど、送り迎えもできずお休みすることに。
送り迎えの時に母に車を借りる事になってたから、LINEで今日は休むと連絡した。
母に仕事が忙しいことは伝えていたが、今日倒れている事は言えなかった。
腹ペコの娘と相談して、Uberでマックを注文した。
待っているとピンポンがなり、玄関前に置くはずなのに変だな?と思ってインターホンを見たら、母が立っていた。
え?なに?私パジャマだし、、最悪…
と思いながら玄関に出た。
「どうしたの?」と聞くと、
「ちょっと、袋ないからここ置くけど」
と言って、エコバッグから、寿司やら惣菜やらを出して玄関に置き出した。
「まだ忙しいの?大丈夫?」
「てんやわんやだけど、、」
「もっと早く言ってくれればなんか作ったけど。ちゃんと食べないとダメだよ」
と言って帰っていった。
「ありがとう…」
と言ったものの、私はその光景をポカーンと見ていた。
勝手に来て、勝手にご飯を買ってきて、雑に置いて、最後にはダメ出しをして帰っていった。
何をしに来たの?
食べ物には困ってない。
ネットスーパーでも買えるし。
むしろ今Uber頼んだ所。
てんやわんやは家の中。
掃除洗濯してほしい。
頑張ってるけど食べる気力がないのに、ダメ出しされて。
なんなんだ?
本当に何も分かってない。
これが彼女なりの愛の形なのは頭では分かる。
しかし理解はできない。
私が欲しい愛の形ではない。
母はいつも身勝手にギザギザボールを投げつけてくる。
これが私の愛だと言わんばかりに。
「忙しい」とは「心を亡くす」と書く。
母はいつも忙しく、心がない。
心のない「愛」は「受」だ。
投げつけられた愛を受け取る。
愛に包まれるわけではなく、勝手に投げつけられて受け取るのみ。
もっと丸いボールはないのか?
もっと優しく投げられないのか?
イガグリを豪速球で投げつけられて、それを受ける身にもなってくれ。
どれだけグローブをはめて、防具をつけて、待っていたらいいのか。
待てるならまだしも、不意打ちに投げつけられる。
しかも、別の角度から投げてきたりして、私のガラスのハートはボロボロ傷だらけだ。
もうイガグリを受けるのはやめようか。
豪速球は避けたっていい。
肉まんだけを受け取ればいいのか。
でも、残念ながら、私はイガグリが好きなのだ。
お母さんが好きなのだ。
痛くても、イガグリが食べたいのだ。
しかし、だからこそ、痛いことを言わねばならない。
そのボール痛いです。
もっと優しく投げてもらえますか?
もっと丸くして投げてもらえますか?
恐らく、投げている本人は、イガグリを投げていることに気づいていない。
それは私も含めて。
だからこそ、受け取った感想を伝えなくては、相手は気づかない。
受け取った相手が、痛い、と言えば、次に投げる時には気をつけるだろうし、
ありがとう、と言えば、またそのボールが投げられる。
できるだけ肉まんを投げたいとは思うが、中々自分では気づけない。
いや、肉まんも熱いからな。注意が必要だ。
どんなボールを投げたらいいか、そこに愛があるはずだ。
時に、イガグリや肉まんが来て、ハッとすることもあるだろう。
しかし、それは、何度もコミュニケーションを重ねた上で起こるのが望ましい。
いつでも好き勝手にイガグリを投げていては、コミュニケーションを取るのは難しいだろう。
痛ぇなバカヤロウ!!と投げ返ってくるだけだ。
お互いにボールを投げ合って、どれが痛くて熱いのか、お互いに知っていく事が必要で、それが本当のコミュニケーションなのだろうと思う。
コミュニケーションとは、人間関係とは、ポジティブだけを伝えるものではない。
ネガティブも伝えて、初めて本音のコミュニケーションができる。
きっと本当は、みんなそれがしたいはず。
ポジティブもネガティブもみんなある。
全部ある。
それが本当の愛の形。