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"べき"を捨てることではじまる多様性
近年、見聞きするようになった「ダイバーシティ(多様性)」という言葉。意味としては、組織や集団において、人種や性別、宗教、価値観などが異なるさまざまな属性の人材を迎え入れ、共存しながら、それぞれが持つ能力や考えを活かす取り組みのことだそうだ。
私はざっくりなところ、いろんな人を受け入れましょう!という"受容の拡大"なのだと理解しているのだが、合っているだろうか。
私の会社で多様性の受容が「足りないなぁー」という方がいる。例えば、その人は「会社にスニーカーで来るなんてあり得ない」「耳にピアスをしていて不快」「ネイルが派手」と格好にものすごく苦言を呈している。
会社のルールとして、それらを禁止するまでのものはないのだが。
"多様性"とは何でもあり、というものではないため履き違えてはいけない。社会、会社や学校のルールをという上位にある定義を守った上での、多様な考え方なのだと思う。それでいうと上記に関して言えることは、「多様性が分かってねぇな」と思う。
スニーカーで出社することで誰かに迷惑をかけたのだろうか。
耳にピアスをしている女性はバックオフィス(事務)のため、社外の方と会うことはほぼない。社内的に問題なければ良いのではと思ってしまう。
その苦言を呈している方は(私からみて)ものすごく真面目で"こうあるべき"という考え方が強い印象である。多様性の時代では、「それも良し」ということであるだろうから、悪く言えないが。
良くも悪くも「こうあるべき」を捨てたらもっと気が楽になるのにといつも思ってしまう。
私自身20代中盤まで「こうあるべき」という考えがものすごく強い人間だった。
高校卒業したら、大学に行く"べき"
留年なんてする"べき"でない
大学卒業したら、定職に就く"べき"
20代中盤に結婚して、数年後に子どもを持って家庭を持つ"べき" などなど
この"ベキレール"から外れた人を見ると「この人は負け組だなぁ…」と内心思う、今振り返ると自分で自分が嫌になるほどの男であった。
今こんな"べき論"を高々と掲げたら、炎上モノだろう。あくまで、以前持っていた考え方であることをご理解いただきたい!!(この「ベキベキの実」を食べたベキ人間であった私が今そうでなくなったかはまた別の機会に振り返って書いてみたいと思う。)
「こうあるべき」という一種の型を持っているとそこから外れる人に対して、嘲笑や愚弄なことしたり、苛立ちや憤懣という感情が出てきたり(これは少し自分に出来ないことができている憧れからくる嫉妬心のようなものも感じる)するだろう。(私だけかな?)受容できないのである。
ただ、この"べき"を捨てられたら、少し受容の器が広がる気がする。ベキという線引きがなくなるため、"考えから外れる"ということがなくなるんだと思う。そして、物事を素直に起きていることとして受け止めることができるように思う。
簡単に多様性を受け容れるということができるわけではないだろうし、私自身も出来ていると自負はあっても他人から見たら出来ていないかもしれない。ただ、言えることは多様性において"こうあるべき"という考え方は邪魔だ。
"べき"を捨てることから多様性をはじめてみるのもいいかもしれない。