人に"本を貸す"ということ
私はちっちゃい後悔をしている。
人に本を貸したのだ。
そんなことをするなんていつ以来だろう。
記憶を辿りにたどっても、その思い出の引き出しが見つからない。それぐらい私の行動にはないことなのだ。
本を貸すこともそうだが、誰に貸したかも、何の本を貸したかも"後悔"を抱かせる要因だ。
ちなみに、会社の事務(一回りも年下の)女性に、若林正恭著『完全版社会人大学人見知り学部卒業見込』を貸したのだ。
若林さんに対して大変申し訳ないが、何でこの本を貸してしまったのだろうと後悔している。
そもそもどういう経緯で本を貸したのか振り返ってみる。
この前、『DIE WITH ZERO』という本を読んだ。
(この本についてはまた別途書きたいと思う)
そこに「人生は経験の合計」という一文があり、
如何に経験にお金をかけるかというような内容が書かれていた。
先日の華金事件も良い経験にするべきだなぁということをその事務にLINEしていた。
そこから普段は本を読むかという話なったのだ。
彼女は、本をまったく読まないそうで、活字を見ていると意識が違うところに飛んじゃうとのこと。
教養系の本よりもエッセイや小説などの方が取っ付きやすいということだった。私は若林さんのエッセイを勧めて"しまったのである"。
LINEには「興味あったら貸すから言って」と添えた。断ってくれたら後戻りができるかもしれない。ただ、彼女からは「ぜひ貸してください!」と返信があった。嬉しい気持ちもありつつ、立場上「(興味ないので)大丈夫です」とは言えないよなぁー、社交辞令だなと穿った捉え方をしてしまう。
そもそも本を貸すって行為は何なんだろ…?
こんな哲学的な?くだらない質問は専らChat GPTに聞くに限る笑
こう答えてくれた。
信頼、共感、共有、そしてリスクの承諾。
互いに理解や親しみが深まるなんか"本を貸す"ってものすごく高尚で、素晴らしいことに思えてくる。
正直恥ずかしさもある。
誰かが言ってた「本棚を見せるってことは自分の心や考えが見られるってことだ」(意訳)
ただ、それ以上にきっと俺は自分が面白いって思ったこと、感じたことに共感してもらいたいんだなぁ、とも思った。
だから思わず、"本を貸す"なんて柄にもないことをしてしまったのだ。
今"俺の若林"は彼女の元にある。
捲られているのかな?
読まれているのかな?
これを面白いと感じる俺はどう思われているのかな?
そんな会話が自分の中で起きている。
どこまでいっても自分に自信が持ちきれない辺り愛おしくもイライラする。
彼女が、面白いと感じてくれたり、若林さんを好きなってくれたり、少しでも楽しんでくれたら嬉しい。ただ、それだけだ。
ただ、この記事は彼女には読まれたくない。