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創作:盛装【卒業制作没原稿シリーズ】

 盛装とは決して言えない、シテらしからぬ質素な衣装を纏った自然居士が子供を連れ、都へ下ると、それを見ていたベトナム・イギリスのハーフである観客のナムは、父譲りの炯炯たる蒼い双眸で、閉演後に広がる壇上の虚空を眺めていた。古来の英雄が作品にまでなって称えられるんだから、自然はよっぽど良い廻向を済ませたのだろうと信じて止まないまま、彼は研究的な目的すら忘れ、熱涙を目頭に忍ばせた。

 駅で用を足し、ナムはダブルデッカ―車の下段席に乗り込んだ。ここの所、外国人観光客も増えたことで、窓から見える平均的な恰幅が広がり、京都の景色が掻き消されて行くことはナムにとって非常に不満だった。大概、日本へ来る観光客は見てくれを気にせず、無化粧同然で街を練り歩いている。
故に、京着物を瀟洒に着こなし、日の光を浴びて燦然と輝くブロンド・ヘアを薩摩芋色のリボンでポニーテール調に飾る女性が遠くに覗いた時、彼の視界はその白人女性に隷属した。
きつく結ばれた翡翠色の帯の下に、遠目から見てもダイナミックな乳房が眠っているのがハッキリと強調されるも、だらしなさを一切感じない。
輪郭から推測できる腿は決して華奢とは謂えない肉付きだろうに、何とも品を伺える。寧ろ健康的且つ、絹が風に揺れる度に、空気中へ溶け込んでしまいそうな柔らかさが表現され、重みのある印象との矛盾には、余計に被虐欲をそそられる。
また、仄かに露見する襟元、及びすそ元に生じる絶対領域的な部位からは凄みすら感じる程蒼白な肌が露見しており、ナムはIQ135を超えるワーキング・メモリーを駆使し、彼女の容姿を脳に焼き付けた。寧ろ、彼にとっては太陽を覗いた時に残る残像のような物なのだろう。
自分が無意識のウチに呼吸をしていた事を意識し出すと、もう無意識に呼吸は出来なくなるような感覚で、ナムはこの時、極度の耽美主義的な側面のある自分に気が付いた。
そして、その女性がこちら側に蠱惑的としか取れない笑み向けていた(恐らく、自分という存在を認識しているのではなく、地面に横たわるアゲハ蝶でも見ていたのだろうが)時、ナムはもう、余りの青天の霹靂に茫然自失する他無かった。蠱惑的、と言ってもそれはナムの主観で、客観的に見ると奸黠さの欠片も見えない、プラトニックな笑みだった。
終点の出町柳に着くまで、ナムは敬虔なトルコ兵のように精悍な表情で座席に座り、固まっていた。

 この時、そんな情感な出来事に心を震わされる自分が居た事に、私という人間は酷く驚いた。いや、本当は解っていたのかもしれない。ある種人間的な自分が表立って出現する事で、私の安寧を得られている事に。そして、ナムの持つ男性的な強いリビドーと、私の持つ耽美主義的な感性が合致した事に感動して、余りにも長々と語ってしまった訳だが、自分自身の抱いた感動を無下にする程の不感症では無い。

 駅を降りて地上に上がると、夕暮れの濃紫に染まった空がナムの仄白い肌を蛍光色にした。目の前に聳える叡山電鉄に、17時台にも関わらず人が吐呑している事に激しい違和感を抱きながらも東側の路地を練り歩き、鬱蒼とした小道を抜けた先に、ナムの下宿先である学生寮が或った。

 この寮には、人生最後のモラトリアム期を隠遁して生活する者を選んだ者達の集いだった。もはや趣をも感じられない程年季の入った木造建築の中では、魑魅魍魎が跋扈している。これを文字通りの意味で捉えても問題の無い程、怪物みたいな人間が多く住んでいた訳だから、怒られる道理はないだろう。

 ナムは自分の部屋の扉を開けると、明らかにルームメイトではない女の存在を確認した。というより、この寮は当たり前に男女で階層が隔たれているので、女性が存在する事自体、異常な訳である。しかし、その都会では中々見ない健全な顔立ちをした日本人の女を、ナムは知っていた。

「あら、おかえりなさいナム」

「トキエ、なんで此処にいるんだい」

「この部屋に誰も居ないことが、証明になってるんじゃない?」彼女は表情も変えずにそう言った。「女の子は皆、孤独が嫌いなのよ」

 そう言って伸ばした彼女の華奢な足は、黒いストッキングによって見事に輪郭が表現されていた。開けっ放された(彼女が開けたであろう)窓から吹いた強い風が、彼女の懶惰な生活を象徴する、枝毛の多く無性に長い髪を揺らした。

「君みたいなのが、女の子って言う主語を使うのには違和感しかないなぁ」

「あら、あなたもすっかり京都に染まったわね。嫌味までお上手になって」

「君みたいな凄惨な暮らしを送るくらいなら、京に染まったほうがマシだなぁ」

 ナムがこれまた突き放すように冷笑的な返事をすると、彼女は怒るどころか寧ろ狡猾な様子で微笑んだ。彼女にとって、アンニュイな自分、という自己評価が形成されているのかもしれないとナムは思った。

「ねぇ、ナム。退廃って悪だと思う?」

「悪だろうなぁ。無生産は、地球にとって灰汁でしか無いからなぁ」

「じゃあ、モラトリアムの整理を理由として休学するのは、やはり悪なの?」

「悪だなぁ、結局のところ、キミは4年で終われる所を5年に延長したに過ぎないよ」

「そう。私は、そうは思わないな」最早表情が移ろいだ事にも気付けなかった程、トキエは仄かに微笑んだ。「退廃は確かに悪かもしれない。けれど、生産的な営みよりも素晴らしいかもしれない。人間が生産的になった結果、地球の環境は破壊されたしね。結局の所、どう生きたところで自分達は人間という地球の灰汁以上の存在には昇華出来ない訳だ」

「まぁ、一理あるかもしれないなぁ」

 この発言に、僕の意識は恐らく介在していなかった。女性らしい芳醇な香りに誤魔化され、ナムは彼女に吸い寄せられていくようだった。

「ねぇ、ナム。デカダンスでアンニュイな私を、受け入れてくれる?」

 ナムは無言で頷く仕草を見せ、彼女の顎を手に取り接吻した。恐らく歯を規則的に磨いていないからか、少し人工的な腐敗臭がした。しかし、ナムにとってはそんな悪臭すらリビドーを刺激する材料となった。

 ナムは右手で頬、胸、腹……と彼女の躰をなぞるように撫で、陰部に触れた。この時、強い違和感を覚えた。硬い何かがナムに向かって怒張している。今度はナム自身の躰に悪寒が走る。この先に進んでしまって良いのか、という葛藤。しかし、私自身の内側から出てくる好奇心に逆らえず、ナムは左手を添えて彼女の履くジーンズを勢いよく下した。

 結論から言うと、彼はパンティーを履いていなかった。

「ちょっとお前、よく見たら男じゃねぇか!」


魔法の溶けたシンデレラのような気分だった。あの後、『彼』に両手を強く掴まれ、再度舌を交えた接吻を強要されそうになったが、同居人が部屋に置いていたクロコダイル調の鞄を用いて『彼』を乱殴打した挙句、最後はその金属部分が相手の頭部に直撃して出血を起こしながら『彼』は倒れた。
ナムは放心状態も相まり、這い這い歩きでなんとか部屋から脱出し、事無きを得たのだった。

 後になって知った事だが、トキエこと『荏田時則』は入学時の書類偽装で大学を除籍となった。元より会話から弊学に入学できる程の知性を感じなかったが、その予感は的中していたようで、センター及び入学試験にて替え玉受験を実行していたそうだ。

 荏田によって涎を多量垂らされたジャスパルのシャツは、無論部屋のゴミ箱へ捨て、今日の所は眠りに付く事にした。

 しかし、眠れる筈も無かった。ベッドには荏田が醸し出す芳醇な柑橘系の香が夏の熱気に燻られ、妙に花をくすぐる。そして、それが記憶の喚起剤となり、トキエの雪のように柔らかく、触れると溶けてしまいそうな程柔らかい唇の感触が戻るのだ。

 ナムはとんでもない事をしてしまったと思った。心を荒涼の地に、自らの手で産んでしまったのだ。
よくよく考えてみると、『彼』はまさしく彼女だった。熟れた果実のように甘い香、無造作故に来る処女性愛を刺激する蠱惑的な顔立ち、理由は不明だが存在する胸囲……男性的なリビドーを刺激するに足る『女』じゃないか。

鈍器にでも打たれたような眩暈と頭痛がナムを襲う。あれほど日中は軽やかな面持ちで居たのに、今は鉛で固められたように躰が重い。快活なナムは、もう既に存在しなかった。何とか入り口に置いて或る、寮生共有の冷蔵庫に辿り着き、誰のかも解らない缶ビールを開けた。
元々下戸だったナムは、簡単に酩酊し、ソファーに座り込んだまま涙を流した。

 それでもナムは啓示に突き動かされるが如く立ち上がり、女子寮階である3階へ上がった。彼女が住んでいた部屋が何処かなんて、勿論知らなかったが解りやすくキープアウトされた部屋をナムは発見した。
ナムは夢中になってテープを奇麗に剥がし、部屋へ入ると或る一台の寝具の上に、所狭しとパンティーが規則的に並べられていた。私は内の何枚かを手に取り、中でも薄い黒色の記事にピンクの鰭が付いたTバック・ショーツを顔に被った。しかし、薫る香はトキエのそれとは全く異なった。

 この時、ナムは牝人共などに懸想する事無く、研究に集中しようと心に決めた。


 夏休みも終わりに差し掛かったある日、前回見に行った能楽堂から便りが届いた。

『研究公演のお知らせ 能【羽衣】シテ:ウィリアム・クラーク』

 このように題された手紙を受け取った瞬間、ナムは吐胸を突かれたような感覚に陥った。旧套を重んじ、国内でも今や珍しい階から寺社等出身の家柄の良い者が開演を命ずる文化の残る能楽堂で、“ガイジン“がシテを務めるという、悪しき風習は擺脱する意識を見て取れる行いが或った事に、ナムは酷く驚いた。

 勿論、ナムはその公演を見に行くことにした。

 無事に受付を済ませ、いつも通り座布団に座すると、ガイジン・シテの物珍しさに沢山の人が来ている事に気が付いた。推定ウィリアムの友人と思しき、日本的な雰囲気に染まった白人が多く、僭上な行為を為しているような気がして少し居心地が悪くも感じる。
昔から、私は母に似て平たく、仄黒い肌を持ってしまった事がコンプレックスだった。父から譲り受けた物と言えば、蒼く鋭い瞳のみ。それが妙な違和感を周りに抱かせ、人間じゃないような扱いを受けた。
思えば、自分が生きた心地を失ったまま生きてきたのは、この時からのような気がする。迷惑な遺伝である。

 暫くして、当主の合図を持って、公演が始まった。いつものように、ワキが天女が落とした羽衣を拾い上げた。ワキは若い日本人故に発音も滑らかで、何時でも定期能にて演じる事が出来そうな程、似せぬ位が実行されていた。

 そして、遂にシテがゆっくりと踵を摺りながら、豪勢な装束を羽織り本舞台へやってきた。

「なうそ乃衣ハ此方乃にて候。何しに召され候ぞ」

 いつもの発声とはほんのりと異なるも、流暢な発声を決め込んでいる。

 しかし、私の意識は声の方には向いていなかった。なんとも、装束の上から見てもダイナミックな乳房が眠っているのがハッキリと強調されており、本当の女性のようである。
輪郭から推測できる腿は決して華奢とは謂えない肉付きだろうに、何とも品を伺える。寧ろ健康的且つ、絹が風に揺れる度に、空気中へ溶け込んでしまいそうな柔らかさが表現され、重みのある印象との矛盾には、余計に被虐欲をそそられる。
また、仄かに露見する襟元、及びすそ元に生じる絶対領域的な部位からは凄みすら感じる程蒼白な肌が露見しており、私はこの時、トキエを意識せざるを得なかった。

「涙の露乃玉鬘。挿頭の花もしをしをと。天人乃五衰も目の前に見えて浅ましや」

 手を伸ばせば私の求むる美が手に入る。

「天の原。ふりさけ見れば。霞立つ。雲路まどいて。行方知らずも」

 今禁忌を犯せば、ナムが未来永劫敵わなくなりそうなリビドーが解消される。

「住み馴れし空に何時しか行く雲乃羨ましき氣色かな……」

 この瞬間、私(ナム)は座布団から身を擡げ、階も経由せずに本舞台へ駆け上がり、舞っているシテを、こちらへ向く間もないような速さで押し倒すと、地面からは鈍い音が響き渡った。
中学生の時に聞いた、幼馴染のジェイが閉じ込められた掃除用具入れが倒れた時に聞いた鈍い音と非常に近く、罪悪感を感じた理性的な自分が行動を制しようとしたが、募りに募った挙句、それらが合体して肥大化した感情を理性程度では制する事も出来なかった。
そして何より、自分自身の跳躍力と、客席と本舞台に設けらている、禁忌で形成されたバリアを飛び越えられた自分に驚嘆せずには居られなかった。

しかし、そんな理性的な刹那も、無意識的に感情が覆い被さり、リビドーに上塗りされてゆく。地謡やワキ達とは何とも異なる、布が何枚も重なった装束を、私(ナム)は丁寧に剥がしていった。と同時に、ナムの顔は蒼褪めていた。

「ちょっとお前、よく見たら女じゃねぇか!」

ナムはたわわに実る乳房に向かって、唾液をまき散らした。不条理に抵抗するナムと、誤魔化しの効かぬ陰部の怒張に、私は心の中で涙を浮かべた。

ナムが日本文楽を研究し始めたきっかけは、ハノイ郊外の路地で過酷な淘汰を経て販売されていた、マイクロビキニを装着した当時の総理大臣『安部晋二』が、ドナルド・トライアンフに同性として懸想するも、ドナルドが実は女性かつ既婚者だったことを知って興醒めしながらも、溢れ出るリビドーを制御できず、ドナルドをPBジェットで国会議事堂に呼出し、レイプをするという内容だった。


畢竟、これらの出来事は一本の線でつながっているのかもしれない。そう思いながら、ナムは赤子のように乳輪を吸い始めた。

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