若松英輔『読み終わらない本』(KADOKAWA、2023年)を読んで。
「読み終わらない本」。それは人生の出会いとも言うべき本との出会いを指す言葉なのであろう。本書はその尊さが口にされることがあってもどこか通り過ぎられてしまう感じが否めない書物といかに出会うことができるかを示してくれる本である。毎年、吉野源三郎の『君たちはどう生きるのか』や夏目漱石の『こころ』は多くの人が読むべきと季節の風物詩として店頭に並ぶかのようである。しかしそれらと本当に出会うとはどういうことかを本書は明かしている。それは読者の著者との邂逅を超えて、読者の書物との衝突とも言うべきものになり得るのである。
本書は生きていく中で人が様々な謎に囲まれていることに気づかせてくれる。日頃何気なく通り過ぎてしまう自分の「感じ」を大事にしながら読むことを促しているのである。手紙という形式に馴染まない読者もいるかもしれない。しかし著者が書き記している手紙はリルケの手紙がそうであるように、ある個人に向けられたものであったとしてもすべてのひとに読まれる言葉がそこに記されるのである。奇異なことに思われるかもしれないが、相手のことを想って記したことが自らを語るということがないだろうか。自分がこういう人間だったのだということを「書く」ことを通して知らされるのである。私たちが日々何を感じ、どのように生きているのか。その違和感、あるいは異和感を言葉にすることがその人をその人たらしめるのである。違和とは単に否定的なことだけとは限らない。ひとと違うということは自らの内にある深い喜びに気づかせることもあるからだ。
本書を読み解いていくにしたがって、それまでも手許にあった、ともすれば縁遠かった本が自分の中でいままでになかった意味のうごめきを感じさせるようになった。それは著者である若松氏がコトバとの邂逅と呼ぶものかもしれないが、まだそれは私にとって邂逅の種なのだと思う。著者の経験の一つひとつが「君」に語られることを通して言葉が微かに私の中で動き始めるのを感じながら本書を読んでいた。本書によって蒔かれた種は私の中で根を張り、いつ芽が出るとも知れないコトバを育むことになるのであろう。少なくとも私にとってはそういうものである。
この手紙の宛先の「君」が誰であるのかは、わからない。しかしふと、「君」と呼びかけられているのが「わたし」であると思う一節と出会うかもしれない。本を読む経験はその「わたし」に語られたと思われる一節との出会いで十分なのである。私はほぼ必ず本は手に取って見てから買う。自分が必要な一節がそこに書かれているかを確かめるかのように。そしてある本と出会う時には逃れられない仕方で何かに惹きつけられるのである。本書には若松氏の他の著作では触れられることの少ない本が数多く言及される。パラパラと眺めながら飛び込んできた高神覚昇の名に惹きつけられた。そして本書を読み進める中で神谷美恵子、河合隼雄、フランクル、教皇フランシスコの言葉が自分の中で新たな意味の布置を与えられていくのを感じながら読んでいた。意味を感じることを押し殺すような日々の中で、本書を読むことは既に蒔かれているかもしれないコトバの種を確かめさせてくれる。読むことがそのままに自らの人生を耕すことを強く促す、ふと手に取りたくなる一冊である。