ベネディクト16世ヨゼフ・ラッツィンガー『イエス・キリストの神』(春秋社、2011年)を読んで。

 神学を学ぶことの意味とは何か。キリスト教神学を学ぶ人にとってそれはイエス・キリストが如何なる存在であるのかということに収斂するのではないだろうか。イエスがキリストであるという最短の信仰命題は、ユダヤ教の中で語られてきた救い主メシアがイエスであるということである。イエスがキリストであるということを知るには深くユダヤ教のことを知らなければならない。しかし数百年にわたって議論されて定式化されていく「イエス・キリストがまことの神であり、まことの人である」という使徒信条で語られている信仰命題を理解するには、救い主イエスが神であるということをめぐる三位一体の神秘に踏み込むことになろう。キリスト教神学の最重要な信仰命題である三位一体を神学者はどのように論じ、私たちに何を問いかけるのかは未だに雲をつかむような話に思う人もいるのではないだろうか。
 イエス・キリストが神であり人間であるということ、そして父なる神と聖霊が神であるという言明がどのような関わりにあるのか。キリスト者が信じているのは三つの神なのかといった素朴な疑問に答えてくれる本はなかなかない。ベネディクト16世の『イエス・キリストの神』はそのような疑問を抱く人々のために書かれたものである。本書の特徴は、いま私たちが現代社会においてよく耳にする信仰に対する疑問や反発に答えることから始まり、平易な叙述にもかかわらず複雑な教理史の末に見いだされる神理解をその研究の核心に迫る仕方で提示していることである。神学的言説、あるいは信仰を語ることそのものへのあらゆる反発に回答しようとするその姿勢はまさに司牧的であり、信仰箇条に定式化された命題を具体的な経験と結びつけて解き明かすその様は稀代の神学者の姿を垣間見させてくれるものである。中でも印象的なのはイエスの御父と関わりを理解することが私たち自身が神との関わりに参与することであり、抽象的で純粋な神理解を保持しようとすることはそのような関係を否定することにほかならず、アレイオス派と戦った教父たちにとっては無神論とさえ映っていたと語られていることである。まさにイエスと御父との関わりを受け入れることが、信仰者にとって深い喜びをもたらすことであることが語られているのである。
 本書には翻訳者による三位一体の解説が付されている。その解説の前半ではちょうど坂口ふみ『個の誕生』で詳述されるところの教理史が簡潔に紹介されており、問題の所在を明確にするのを助けてくれる。また三位一体に関するラテン神学の紹介も参考になるものであろう。ただ、解説の後半にかけての訳者による三位一体の文章は、ラッツィンガーの本文がこれ以上になく明瞭なだけに、読者を混乱させる部分があるように思われ、残念ではある。とはいえ余人を以っては望めない明瞭な訳文の本文における、父なる神、子なる神、聖霊についての省察は、旧約聖書、新約聖書、そして現在へと続く教会の根底にある、キリスト教がキリスト教である理由を知らせてくれるものであり、最良の三位一体論入門であるように思われる。品切れなのが惜しい。


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