エティエンヌ・ジルソン/渡辺秀訳『中世哲学史』(エンデルレ書店、1959年)を読んで。
長らく中世ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれてきた。しかしそれが全く当てはまらないことを昨今の中世ブームは明らかにしている。ただ、中世哲学を学ぼうと思う人は、あまりにも多くの人々が登場する、古代の終わりから近代の始まりを告げるまでの期間の思想史をどのように捉えれば良いのか持て余してしまうのではないか。さながらヘーゲルが哲学史を評する如く、哲学史とは思想における闘いの墓石である、と。
今の読者にとって、リーゼンフーバー氏の『西洋古代中世哲学史』と『中世思想史』の2冊は他書では得難い手がかりを与えてくれる思想史である。その一方で評者が哲学史を学んでいてずっと気になってきた哲学史があった。若松英輔氏の『井筒俊彦』を読むたびに思い出しては読まなければという思いに駆られてきた、エティエンヌ・ジルソンのそれである。現在のアメリカ・カトリック大学のトマス研究所で活躍している人々の発表を聞いたり著書を読んでいても、今なおジルソンの仕事が大前提とされていることが伝わってくる。日本でも定評のあるジョン・マレンボンの仕事でさえ、明確にジルソンと棲み分けをしていることを感じさせ、近年刊行されて邦訳も出た列伝体の中世哲学入門もまた、明らかにジルソンらが切り開いた従来の中世哲学史を意識している。しかし未だなお、彼ら西洋文化圏の研究者にとっての「従来の」中世哲学史観は、日本の読者には十分明らかであるとは言えないだろう。
数百年に渡る中世思想史を学ぶうえで、この時代を特徴づける哲学者たちがいる。アウグスティヌス、アンセルムス、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスなどである。彼らの重要性はどの中世哲学史を紐解いても伝わってくるものであるが、どういう時代状況でどういう問題に取り組もうとして、何に応えているのかということが手に取るように分かる本はなかなかない。時に対立的に紹介されることもある代表的な人々を思想的背景とともに書き記していく本書は、未だに類書を見ない古典的著作である。体系家としてのトマス・アクィナスが概念の整理をしたのに対し、ドゥンス・スコトゥスは哲学において創造的貢献をしたとの寸評が印象的である。生き生きと描かれる思想的交流には、中世が暗黒時代であるという認識を覆す数多くの考察がそこここに見いだされる。
本書の終章にかけて、近代以降の科学的世界観の基盤となる洞察がすでに中世の思想家たちによって考えられていたことが確かめられる。その一つ前の章においてはどうして人々に中世が暗黒時代と捉えられたのかについての興味深い考察がなされるのであるが、これはあるいは現在では評価の異なる内容であるかもしれない。しかしそこに見られる懐古的なアヴェロエス主義には、ともすれば信仰についての原理的思考を放棄した現代に通じる人間の姿を見出しうるかもしれない。本書を通じて、如何にして中世哲学が躍動し、今なお読み解かれるべき問題群を蔵しているか、読者は目を開かれることであろう。ジルソンの洞察は時代を先取るところがあり、神秘家としてではなくトマス神学との繋がりにおいてエックハルトを読んでいるのもまた印象的である。今でこそ当たり前に受け入れられているジルソンの見解は、現在においても中世哲学の沃野を読者に闡明するものである。復刊が望まれる古典的著作である。