ヨゼフ・ピーパー/稲垣良典訳『余暇と祝祭』(講談社学術文庫、1988年)を読んで。

 本書は現代世界において如何に観想的生活を実現するかを問う本である。余暇を如何に過ごすかということが問題となって生涯教育が殊更に取り上げられた時期があり、そのころに刊行された本書はいささかキャッチーな外見を呈しているかもしれない。しかし本書は小さな短い本ながらも本質を突く時間論の古典とも呼べる書物である。
 本書を紐解いてその議論の一つひとつを読み進めてもらうほかに、本書への案内は難しいのであるが、一つだけ言及しておきたいあまりにも意外な指摘がある。それは怠惰とは忙しくすることであるという指摘である。表面上いそがしく立ち回り、予定を詰め込んで生きることは、人間存在にとって本質的な余暇を失うことであり、それは怠惰にほかならないとピーパーは指摘するのである。余暇とは、自らが自らである時間を創り出すことであり、それは人間本来の創造性と結びつくものである。そしてそのような時間は観想にほかならず、人間にとって本質的な理性的営みなのである。この指摘は七つの大罪の一つとして取り上げられるのだが、一見近寄りがたいキリスト教的価値観の中により豊かな生の可能性を提示するのは著者ならではである。
 本書の著者ヨゼフ・ピーパーは浩瀚な徳についての緒論を著され、枢要徳論、愛徳論は邦訳もされている。本書の訳者である稲垣良典氏はご自身の著書の中でたびたびピーパーの緒論に言及されるのだが、ピーパーの枢要徳論・対神徳論は現代における生き生きとしたトマス・アクィナス読解の可能性を提示している。本書もまた余暇という主題を通してトマス的な観想論を現代に提示していると言える。しかしそこに留まらず、そこからプラトンやアリストテレスへと遡り豊かな洞察を取り出していることに気づかれるであろう。読者もまたプラトンやアリストテレスへと向き合うことを促されるのである。
 翻訳者の稲垣良典氏には重厚な『トマス・アクィナス倫理学の研究』という総合的な徳論があるのだが、本書はその主題を知悉した訳者ならではの、日本語で書かれたのかと思うほどの翻訳に驚かされる。その言葉の力強さを読者も感じることであろう。本書の力強い問いかけは私たちが生きることの意味を問いかけ、働くことの意味を確かめさせる。ヨゼフ・ピーパーの余暇論は現代の虚無感を突き崩し、豊かな生の可能性を問いかけるのである。

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