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カサンドラが自らの力で幸せをつかむまで〜ASD夫との10950日(23)
「自立へ向けて」
家庭は、チームである。
そうではない家もあるだろうが、同じユニホームを着て助け合い、人生を共にしていく。
違った環境で生きてきたから、お互い歩み寄ることも大切だろう。
しかし彼は、幼い頃からの習慣を何一つ変えようとはしなかった。
朝食のメニュー。
私が作る彼の実家と寸分違わないメニューを、彼は小さな頃からの習慣だといい、小さな子供用スプーンで朝ごはんを食べた。
180センチもある大人が、大きな手で子供用スプーンを器用に扱う。
少しでもメニューの様子が違うと、文句を言った。
「卵の固まりすぎだろう。やっぱり君はまだまだだなぁ。」
「ごめん赤ちゃんが泣いたから。次は時間守るね。」と言うと、とても満足そうに「うむ。」と言う。
ASDの特徴に多いと聞くが、彼は好き嫌いがとても激しく食べられるものが圧倒的に少なかった。
香りの強いものは一切ダメ、海のものも一切受け付けない。
デミグラスソースなど複合的な味付けのものは味がわからない、と避けていた。
彼は、肉やご飯などを好きなだけ大量に延々と食べ続けた。
体にいいだろうと工夫して私が作った料理は「あ、お腹いっぱい」と言いコンビニに出かけ、弁当を自室で食べていた。
食べ物は、ぐちゃぐちゃに混ぜてから食べる。
これも、幼い頃からの習慣なのでやめられないのだという。
くちゃくちゃと音を立てながら、無表情で無言で食べる。
外食していてもそれは変わらず、周りの目も気になり注意すると、不機嫌になり私たち3人を置いて、会計もせず車に戻ってしまう。
私からの希望や相談は「贅沢・自分への否定・攻撃」と見做され、最初は無視された。
それでも私が引かないとムキになって、意地でもやめないか私を嫌な言葉(「うわ〜顔に毛が生えてるー。」や、「ふん、農民階級のくせに」など)で攻撃し、怯んだ瞬間にさっと逃げるのである。
作業は、できるのであろう。
信じてもらえないのだが、自分以外に対する「愛情」や「心」を一片もモテない人間はいるのである。
この人と一緒に居続けることは、厳しい。
しかし、子供はまだ小さい。
私は、生まれて初めて職を探し始めた。
バイトの経験しかないので、探し方がわからない。
まだインターネットの時代ではないので、最初に手に取ったのは求人のフリーペーパーだった。
求人欄を、読み漁った。
フルタイム勤務は難しい。
私と繋がっている世界は、新聞と行政広報のみ。
私は行政の就労支援の窓口を叩いた。
託児があるという市の講習会に、幼い子供2人を抱えバスを乗り継ぎ出掛けて行った。
そこには、様々な境遇の人たちがいた。
年齢もバラバラである。
加えて、離婚へのセミナーにも参加してみた。
想像以上に悩んでいる人が多いことに、とても驚いた。
1人ではない。
そう思えて、涙が出るほど心強かったのを覚えている。
子どもが小さくて、預けられない。
家でできる仕事‥
私は、何を持っているだろう?
私は、大学で中高の英語の教員免許を持っていた。
将来は海外で、などと夢を膨らませたこともあるのに、今は夫の冷たい仕打ちに悩む、化粧どころか髪を切りにさえいけないおばさんだ。
まだ25歳になったばかりなのにと、鏡を見て涙が溢れたが、
泣いてはいられない。
2人目を産んだ時、看護師さんが言ってくれた言葉が背中を押した。
自分が持っているもので、生きていく。
そう誓った私は、家庭で学習塾が開けるという会社の門を叩いた。
採用試験、合格。
私は、一つづつ準備を進めていくことにした。
子どもたちは、私がいなくなっても生きていける力をつけてあげること。
精神的に豊かな生活を送れること。
それが、子育ての最終目標である。
経験から、教養と教育が大切なのではないかと感じていた。
様々な経験をさせて、視野を広げてやろう。
幸せな家庭は見せられないかもしれないが、精一杯子どもを愛そう。
お父さんとお母さんの、二役をやろう。
絶対に絶対に、不幸な子供にはしない。
その誓いは、その後子供たちを大学院に出すまで揺らぐことはなかった。
その思いが、何度も折れそうな心を立て直す芯となり、やがて根を張り私の中に深く根付いていくのである。