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レジリエンスを考える根底にある優しさ

レジリエンスという言葉に触れて、様々なことを学んできた。

レジリエンスを「自分」に向けて考える時と、「他者」に向けて考える時がある。

自分に向ける時には、働きながら、生活しながら「折れない心」をどのように作っていくかを学び、実践する。

他者に向ける時には、「強い職場」を作ったり、誰かの心の支えになったりするために学び、実践を促す。

今日は後者。他者のためのレジリエンスを考える時の自分の中に芽生えた価値観について残しておきたい。


レジリエンスという言葉に出会う前にも、自分よりも若い世代の人の「心の支え」になりたいと思って言葉をかけたり、アドバイスをしたりということは度々あった。

しかし、その中にきっと間違っていた部分があったのではないか、と思うことがある。

それは、「相手の立場を想像する」というところにあった。

24才の後輩が悩んでいた時に、

「自分が24才の時かぁ〜。あの頃なんて自分はまだまだ・・・・」とか

思春期を迎えた親戚の子に

「中学生なんてものはさ〜・・・」とか

その人の立場に近づこうと自分の「経験」を探る考え方。

これはもしかするとミスリードに繋がってしまう可能性があるかもしれない(このかもしれない自体も妄想です)

今中学生の子。自分が中学生の時。絶対に違う時代なのだ。

中学生の時、自分は「人からどう思われているのか。」ということに初めて真剣に悩んだ。それは思春期特有の全員の悩み。

しかし、その悩みから解放される時間帯もあったのだ。なぜなら、携帯電話というものがなかったから。(当時は交換ノートというのが流行っていた時代です)

しかし、今の中学生は24時間365日「人から自分はどう思われているんだろう。」という思春期に爆発的に不安になるこの気持ちと向き合い続けなければいけない環境にあるのだ。SNSが生んだ時代の変化である。

つまり、辛さの度合いや種類、悩んできた時間や深さは「比較できる」ものではない、のではないだろうか。

とすると、自分が誰かのレジリエンスを高めるためにできることは、その相手から「学ぶこと」「知ろうとすること」からスタートして探していくしかない、という感覚を持たないと、ちょっとピントのズレたアドバイザーになりかねない、と感じたのだ。

誰かのために という優しさ。

誰かの気持ちに近づいて、同じ立場にたとうとする優しさ。

そのスタートラインをもう一度考え直して過ごしたい。

自分の経験則から正解を導き出そうとする思考回路に抗っていける自分の在り方を、忘れないようにしたい。

じゃないと、いつか無自覚に全く悪意のない感じで

「今の子はだいぶ心が弱くなったよね〜」と

言ってしまうかもしれないから。

今の子はすごい時代に生きているのだなと、常に言える年長者でありたい。

「リスペクトで感情を上書きする自分」


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