読書レビュー:(仮題)夢見る木幡山
今回は、私がnote街での父とも兄とも思う福島太郎さんの著作「夢見る木幡山」をレビューしていきます。最初に、この作品はまだ紙媒体でもネット上でも流通しておらず、希望する者にだけ試験的に配布されたバージョンであることを申し添えておきます。
まず、最終的な感想を簡潔に述べさせていただきます。
ウルトラスーパーな熱量ですね!太郎さん!!
はたして、何が福島太郎さんの心に火をつけたのか。労力を割いてひとつの物語かつルポタージュのようにする、何にそこまで惚れ込んだのか。そこをこれから読み解いていきましょう。
■どのような作品か
今作は福島太郎さんがご自身で曰く、これまでの作品が「事実と空想のミックスジュース」だとすれば、今回は「事実」と「空想」が、パーツとしては分かれているものを、一体として味わう「事実と空想のサンドウィッチ」という感じでしょうか。としていらっしゃるとおり、プロローグとエピローグに当たる部分を空想パートの時代劇、その間に私たちが今、生きているこの現代のリアルタイムな話をはさみ、サンドイッチ構造をなしています。
このサンドイッチ構造のパンの部分は、福島太郎さんがあるきっかけで知ることとなった福島県二本松市は木幡山にある神社、隠津島神社の縁起に端を発した創作ですが、それでいて登場人物の心情や吐露は、サンドイッチの中身の具たる現代の取材に基づいた思想や言葉が違和感なくちりばめられており、経験を自己の内で昇華したこの表現の方法には目を見張る思いです。
内容の大筋は、ひょんなことから知ることになった神社の禰宜の方と運命的な再会を果たし、その禰宜の方が所属している神社の、現代に即した、現代に即するような取り組みを追い、感銘を受けた著者が自分でも何かできないか、エールを送ることができないかと模索する話です。
その答えは、この活動を広く知らしめること。つまり、この作品そのものが、かの神社、禰宜の方へ送るエールなんですね。
■本質を変えず、姿を変える伝統は
最初、福島太郎さんは隠津島神社の取り組み──祭神のキャラクター化、YouTubeチャンネルの開設、クラウドファンディングの実施などに対して、『そこまでやってええんかいな』的な感想を持ちます。しかしすぐに「駄目な理由が無い」ことに気がつき、「有りかもしれない、というか有りだろ、有り」という結論に至ります。この部分は、読んでいて少なからずハッとさせられました。地元の魅力を発信するご当地Vtuberを見慣れた私にとってはごく普通の光景でも、個人ではない、神社や官公庁といったいわゆるおカタい組織がこれをやるのは思い切りと入念な根回しが必要になることでしょう。福島太郎さんはすぐに「有り」と思ってくださいましたが、アバターや配信、キャラクター化といった文化に馴染みの無い世代は、これらの文化的背景やそれがもたらす効果についてしっかりとしたプレゼンをしないと伝わらないかもしれません。そういった世代をも巻き込んでこのプロジェクトを進めようとするなら、なるほど並々ならぬ覚悟と労力がいるだろうなと思いました。
■今ここにいる我々と、遠い未来のために
読み進めていくにつれ、この神社が取り組んでいる内容が少しずつ鮮明になっていきます。それと同時に、この神社がどういった将来像を描いているのか、未来の在るべき姿とは何か、ということが、隠津島神社公式サイトに書かれている文言のリフレインとともに示されます。
それは、今ここにいる我々と、遠い未来のために、たくさんのことに挑戦すること。
「こうでなければならない」というスタンスは極力見せず、変わりゆく人の世に寄り添い、柔軟に変わりゆく。いつの世も神と人は互いに必要とし合うように、変わり続ける世界で神社だけが取り残されてはならない。たとえ最初は理解されず、非難を受けるようなことであっても、恐れずに挑戦する。結果として失敗に終わっても、現状のまま化石化していくよりははるかに良い。
知られざる伝統的な地域の良さ、いままで宣伝されることのほとんど無かった誇るべき地域の特色を活かすためのツールが、現代にはいくつもあります。けれども、それは思いつきでやってすぐに効果を発揮するものではなく、すぐに結果を出せるものでもありません。魅力的なコンテンツの研究開発、綿密な計画とプロデュース力、継続のためのリソース確保、それを実行できるだけの能力を持った人員の確保など、体系的に運用しようとなると、知識や経験など、専門家なみのものが求められます。それを果敢にチャレンジしている神社とその禰宜。この挑戦は、今も現在進行形で行われているのです。
■覚悟をもって未踏の地を征く者を助く
この事実は、全国で似たような取り組みをしている組織や個人を大いに勇気づけ、発奮させることでしょう。(事実、私も「よし!やるぞ!」という気になっています。何をやるのか定かではありませんが)
ただし、それが知られれば、です。
SNSや動画サイトを使ったPRが難しい点はここにあります。無名の発信主が何を発信しようとも、無名ゆえに見てもらえない、という事実は厳然として存在し、多くの発信主の心を折って、PRの表舞台から立ち去らせしめてきました。しかし、地道ですけれども着実にファンを増やして裾野を広げていくしかありません。今、成功しているご当地アイドルやご当地ヒーロー、ご当地Vtuberなどは皆、そうして実績を積み上げてきた人たちばかりなのですから。そして、福島太郎さんは本作を使ってその実績を積み上げる一助になろうとしています。
私が見るに、福島太郎さんはすごい熱量を持ったファンです。私の知る限り(noteに記載されている限り)、木幡山の隠津島神社にわざわざ歩くのに苦労する道を泣きそうになりながら登り、後日さらに奥の宮へ登った時にはまたしても人が行かない道をあえて選んで泣きそうになっています。それでも、いえ、それゆえにこの神社の挑戦をより色鮮やかな光景として眺められているのではないでしょうか。
隠津島神社の取り組みを休火山が新しい小さな噴火口をいくつもつくって炎をあげていると例えるならば、福島太郎さんはその古色蒼然とした山から吹き出した炎の若々しくも雄々しい力、覚悟をもって未踏の荒野を征くがごとき気概に魅せられて呼応し、まったく関係ない土地から自分も小噴火して怪気炎をあげている山だと言えるでしょう。ただ、ひたすらに応援したい。そんな気持ちが、文面から伝わってきます。
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■気になった点
気になった点は、まず、今作のおそらくメインのメッセージたる「今ここにいる我々と遠い未来のために」という部分ですね。公式サイトの文を読むと、『1252年という長い年月にわたり、神社を取り巻く先人たちは実にたくさんのことにチャレンジしてきました。
今ここにいる我々と遠い未来のために。』
とあります。これ、2行の間にスペースが無いんですよね。ということは倒置法、『今ここにいる我々と遠い未来のために、神社を取り巻く先人たちは実にたくさんのことにチャレンジしてきました。』と読めます。これを受けて、次の段落での「温故知新」につながると思うのですけれど、作中ではこのセリフは、なんとなく現代人である神社の禰宜の方が発しているような印象を受けるのです。どの時代の誰が言っても通じる文言だとは思いますが、これを誰が発していることにしたいのか?というモヤっと感が残りました。
次に、禰宜の出自について。作中では神社の家に生まれ……という前提で話が進みますが、読んでいて「えっ、そうなの?」といういささかの唐突感が否めませんでした。浅学にしてものを知らないので、地方の神社は世襲が当然ということであればお許しください。(これは自分で調べてわかったことですが、この神社には作中に出てくる禰宜の方と同姓の年配の宮司の方がいらっしゃって、かつお名前の一字が禰宜の方と共通していらしたので、おそらく年配の宮司の方がお父さま、壮年の禰宜の方がご子息だと推察できます。なので「神社の家に生まれた」というのはほぼ間違いなさそうです)
あとは、東和ロードレースのくだりですね……内容が濃いので、本編の話と調和しきれていない気がしました。今までコース料理を食べていたのに、デザートの直前にカツ丼が来た、という感じでしょうか。カツ丼はカツ丼で、またの機会にガッツリいただきたいと思いました。
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■終わりに
本作は「プロローグとエピローグがフィクション」になりますが、全体としては、令和3年における事実に即したお話です。しかし「実録・ルポタージュ」のように事実を伝えることを目的とした内容ではなく、僕なりの想いや感想を詰め込んだ「エッセイ」のような内容を含んでいる、少し不思議な話になります。
著者ご本人のこのお言葉の通り、ルポのような臨場感ある体でありながら、福島太郎さんが受けた影響をつぶさに観察できる、たしかに少し不思議な作品となっています。特に本編の内容をじゅうぶんに咀嚼してからエピローグの創作を読むと、そこにちりばめられた意味に気がつき、うならされることはうけあい!結びの言葉に持っていく流れは実に美しく、音楽的なものを感じました。
この文章には力がある、この言葉選びには熱がある。
この言葉をもって、今回の読書レビューは〆とさせていただきます。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、ごきげんよう。
太郎さん、感想遅くなってごめんなさい!(>人<)💦
いろいろ好き勝手な感想を書きましたけど、大目にみてください!笑笑
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