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ニュースつぶやき:「並び順に見る差別と区別の違い」
ひょんなことから「科学忍者隊ガッチャマン」という作品の敵幹部「ベルクカッツェ」というキャラクターを知り、その造形の妙に感心しておりますわ!
ごきげんいかがでしょうか、引き続きお嬢様月間の私です。
さて、「背の順に並ばせるのは差別ではないか」という驚きの主張を目にしたので取り上げてみました。
発言者によれば、背の順に並ばせるのは“いじめの一種と考えていい”とのこと。私の感想を簡潔に表すなら「しゃらくさいですわ!がまんなさい!」ということになりましょうか。
学校とは、物理的にも精神的にも世界のミニチュアのようなものだと私は考えておりますの。実社会に出るまでに必要な素養を、そのミニチュアの中で少しずつ醸成していく装置──そのような側面を持つものだと理解しております。
たしかに『ひとりでもいやな思いをする人がいるのはよくないと思いまーす!』的な考え方は、耳に快いかもしれませんね。しかし、それだけを突き詰めていくと、おそらく人間にとって大切な素養のひとつである、我慢・忍耐を鍛える機会を失ってしまうのではありませんこと?
なぜなら実社会においては少数の思いが顧みられることは稀であることが多く、我慢しなければならない・耐え忍ばなくてはならないという事態は大なり小なり毎日起こりえるからですわ。そこに、あらゆるマイノリティに不満を抱かせることなく、至れり尽くせりの扱いで、ある意味では純粋培養された子どもたちを放り込んだらどうなるでしょうか。
まず間違いなく、初撃で甚大なダメージを受けてしまうことでしょう。ことによると一撃で致命傷を負うかもしれません。
また、そのダメージの穴埋めをするために、まるで見当違いの主張をし始めるかもしれません。
たとえば、好きな異性の取り合いに負けた方が
『誰にでも平等な結果であるべきなのに、相手の方が財力/ルックス/能力/性格が良かったからという理由で、それらで劣っている自分を選ばないのは差別だ』
などと言って、自分に不快感を与えた相手を非難し始めたらどうでしょうか。その主張が強制に変わったら?強制が暴力を生んだら?
世の中の競争、悪意、差別、蔑視、欺瞞、理不尽、不条理など、そういったものを防いだり、いなしたりする技術を実戦に出る前の訓練で身につけるはずなのに、「背の順に並ばせるのはいじめ」という主張はその機会を奪ってしまうことにつながりはしないかと、私は思うのです。
もちろん、いじめが良くないのは当たり前です。『おいチビ!オマエはバスケチームにはいらねんだよ!』と寄ってたかって責め立てるのはいじめです。これで我慢強さや忍耐力を鍛えろというのは明らかに間違っています。我慢強さや忍耐力が鍛えられる前に潰れてしまうでしょう。
では、背の順に並ぶことによって自分の背の高さにコンプレックスを抱くようになるのはどうでしょうか。私なら前述のように『がまんなさい!』と喝破するところですけれども、ここが難しいところで、どこまでを我慢の範疇とするかは人によりますし、また、当人がどこまで耐えられるかも人によるでしょう。
このように、教える個人の教育のものさしと、受ける個人の許容量とが無限に近い組み合わせを持つがゆえに、かえって教育の現場から、「反差別に画一的」とも言える「背の順に並ばせるのはいじめのひとつと考えてもいい」という発言が出てくるのではないでしょうか。厳しいことを申し上げるようですが、それは広義には「怠惰」であり、狭義には教育の放棄であり敗北にも等しいと私は考えますわ。正義、友愛、弱者の救済……甘美な響きを持つそれらはしかし、しばしば「怠惰」が他人を欺く仮面でもあるからです。
とはいえ、この問題に確たる正解は無いでしょう。これを書いている私でさえ、(ほんとうにそうでしょうか……?)と自分を疑いながら書いていますもの。唯一、正解らしいものがあるとするならば、それは「正しいと思い込む自分を疑え」ということなのかもしれませんわね。
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