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体験を詩にするということ
このところ考えているのは、体験を詩にするときの難しさについてだ。恥ずかしげもなく噛み砕けば、“どうしたら愚痴や吐露から脱却し詩にできるのか”ということ。
参照したい文章その1
《思いや出来事をそのまま作品にするのではなく、それを抽象化して、必要なところだけ、骨組みだけを残して作品にする。そうすることで、もともと抱いている情感とは別の、さらに洗練された、あるいは自分だけでなく、人と共有できるものになる》
松下育男『詩の教室』p229
つまり、自分の感情だけをどんなに書いても、そこに抽象化がなければ、人と共有できるものにならないということか。
では、抽象化とは何か。
具象が「かくかくしかじか、こういう事がありました。なので、私はこんなふうに感じました」であるならば、抽象化とは、誰それはどう言ったとか細部はいらなくて核心だけを抽出するということ。情報をできるだけ削ぎ落として、ものの本質に迫る。こうすることで焦点がぼやけず人に伝わりやすくなる。
では、詩における抽象化とは何だろう。
詩では具象で語るということもある。先の本の中に
《すべては詩的風景で、その風景の選び方そのものが、詩の言おうとしていること》
という表現があって、そこから考えると、具象の中の「詩的風景」をどこに見出すかが、その詩人の個性となって現れるということか。
また、もう一つ参照したい文章がある。
《現実の生活、そしてその中での私たちの体験、それは私たちが詩を書き、詩を読む場合の、重要不可欠な手がかりであり、支えであり、手立てではありますけれども、詩の目的ではない。現実の体験が詩を手段として伝達されるのではなく、むしろ逆に、詩が現実の体験を手段として(足場として)成り立つのだ。》
入沢康夫「詩と体験 現実と作品化」
体験を伝達するのでなく、体験を手段として詩が成立する。
体験を手段とするとは、どういうことか。私はここで、石垣りんさんの詩「挨拶 ー原爆の写真に寄せて」を思った。1枚の写真を見るという体験から生み出された詩だ。
この詩のなかで、友と向き合った顔について
》その顔の中に明日の表情をさがすとき
》私はりつぜんとするのだ
という連がある。「りつぜんとする」のは写真を見た時ではなく友の顔の中の「明日の表情をさがすとき」。何故ここでそう感じたのか詳しくは本作にあたって欲しい。ちなみに詩の最終連はこうだ。
》一九四五年八月六日の朝
》一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
》いま在る
》あなたの如く 私の如く
》やすらかに 美しく 油断していた。
この詩の中に、私の問いに対する答えが詰まっているように思う。