「普通、○○だよね」への違和感。
「普通さ、○○だよね。」
ある人の言動に違和感を感じ、それに関して他人の共感を求め、自分の正しさを主張するこの言葉。
私もうっかり使ってしまうし、人が使っているのもよく聞く。
「普通」って一体なんなんだ、と思う。
「大抵は○○」「一般的には○○」ということはある。
それは、多数派が○○なだけであって、△△の少数派だっている。
わかる人もいれば、わからない人もいる。
出来る人もいれば、出来ない人もいる。
「普通はさ~、」なんて言っているその人のほうが、よっぽど変な人だったりする。
私はとある企業の管理部門で経理の仕事をしている。会社の管理部門など、「普通」で凝り固まった脳みその宝庫だ。
例えば、社員の経費を精算しているとき、毎回、領収書ではなく、クレジットカードの利用明細を証票としてつけてしまう社員がいる。
会計するときに、レシートとクレジットカード明細を両方渡されるし、どちらにも金額が書いてあるので、わからなくなってしまうのだと思う。
経理の人間だから、領収書とクレジットカードの利用明細の区別はつくし、どちらを会社へ提出しなくてはいけないか判断がつく。
でも、人によっては、それが難しい場合だってあるだろう。
「普通さ、わかるよね。」
と相手を見下して切り捨てるのは簡単なのだ。
「わからない人もいるかもな。」と想像力を働かせて、その人がわかるように工夫したほうが、お互いプラスになる。こっちの仕事だってスムーズに進む。
なのに、隣の席の人と
「ほんと、ほんと。何回言えばわかるんだろうね。」
「この子ってばこないだも申請忘れてさぁ。」
などと話を広げてヒソヒソ話に興じてしまうのは、よほど暇だからなのか。
「普通は、こうであるべきじゃないですか。」
「普通は、こういうものですよね。」
あなたの「普通」なんか知らない、と思う。
自分の「普通」を、「べき」という言葉で正当化しないでほしい。
「普通」を人に押し付け、「べき」で周囲を囲わないでほしい。
家庭で、幼稚園で、学校で、会社で。
私たちは「普通」を教え込まれてきた。
「普通」は「常識とされるもの」だったり「世間体」だったり、「空気」だったりする。
とりあえず「普通」を守っていれば、「普通」の枠の中にいれば、周りも自分も安心する。「普通」から溢れた人を非難することだって出来る。
ここ数年「多様性」「多様性」とお題目のように聞こえてくる。
「多様性」とは人種の違いや、LGBTQなどに関する話だけではないと思う。もっと身近な、学校や会社の隣の席の人について、自分の「普通」とは違う、その人の「普通」を想像することではないのか。
別に、相手を理解する必要も、好きになる必要もない。
ただ、この人は自分とは違うんだな、と思うだけでいい。
これ以上関わらなくて済むなら放っておけばいいし、どうしても関わらなくてはいけない相手なら、最小限の工夫をするしかない。
周りを囲って相手を非難したところで、得るものは何もない。
自分の正義が満たされるだけだ。
自分も相手も間違っていない。それを他人に保証してもらう必要もない。
それだけで、自分も、周りも「普通」という名前の正義から解放される。
「多様性」を考えるというのは、そういうところから始まるのではないかと思う。