自由に生きる、制限されて生きる
自由こそが大事だといふ価値観のもとでは、制限されることは自己にとって許し難いことだ。制限されてしまふと、自己は個人として生きることができない。だから、自由に生きるとは、目につく制限にかたっぱしから挑むといふことにもなる。
さうして、どんなに個人であらうとする女性も、母親になれば、母親といふ属性の中に落ち込んで、自由に生きる主体であるべき
<他の誰とも違ふ個、私>
としての姿が曖昧になる。
「◯◯ちゃんのママ」と、呼ばれて鼻じらむ女性の表情は、まだまだ見かけが若いつもりの老人が、電車の中で席を譲られた時の戸惑ひと怒りに似てゐる。
一方、自然や社会が科してくる、女としてのさまざま属性にあからさまに対抗しないで、その制限の中で自己を育てる生き方を選んで来た人は、主体として母親であるといふ制限を受け入れるため、かへって、その制限の中で、その人らしい母親となってゐる。