noteとクリエーション
排泄としてのnote投稿と創作としてのnote投稿がある。
排泄物は流して二度と見ない。
毎日出せば気が済んでしまふ。
毎日書いて二度と読み返さない、本人が忘れるために書く記事は精神の排泄物だ。
noteのほとんどはお互ひの排泄物なのだらうか?noteとは知的な公衆トイレなのだらうか?
排泄として文章を書くことは誰にでも出来る。
創作として文章を書くのは、器楽演奏と同じで難しい。
或る程度のスキルが必須だ。
それでライター養成講座とか小説家になるための教室といったものがある。
ライターのレベルの文章でも
①習ってもできない人
②習っただけのことは出来る人
がゐる。
天与の文才のある人は習ってる途中から先生を超えてしまって嫌がられる。幸ひなことにめったにゐない
創作とは引潮の浜辺に砂山を築くこと。
潮が満ちると跡形も無くなる。
それでも浜辺に砂地が広がると砂の城を築きたくなる人が必ずゐる。
何かを懸命に作りたくなる。
時間をかけ工夫して細かく壮大に創造したくなる。
他の人はそれを見ながら小水を砂地に撒いて<けしからん絵>などを描いて笑ってゐる。
砂の城も小水の落書きも波が来れば消えてしまふ。
どちらも同じなんだから、出したいものをだして、楽しめばいいといふことらしい。
楽しむことが大事。
どうせどっちも波に呑まれて消えるのだから。
けれども、むろん、この二つは、同じに見えるが、全く違ふ。
かういふ二つの態度は、生きることに対しても起きる。