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東洋哲学的な視点から(川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」の感想、考察)

はじめに

この小説が面白すぎて、こういう視点で読むこともできるよね!!と強く思ったので初めてnoteを書きます。小説の感想も、東洋哲学の捉え方も私自身の解釈ですので、お手柔らかに。最後に感想も書いたので、それだけでも読んでみてください。それでは

思ったこと①私はこの奥歯を私であると決めたのです。

 そもそもこの作品の「わたくし率」=「わたくし度合→私を私たらしめている部分はどこであるか。」といった意味合いであると思うが、一般的には脳であるとされているが、主人公は冒頭でそれを歯であるとしている。まずもうこの時点で面白い。しかもその理由が本書P9「わたしは単純に脳にぐっとこん。」とある。面白すぎるな~~~。
 そしてここで重要なのが、多分主人公は、このわたくし度合ということにフォーカスして、突き詰めて歯にしたのではなく、ただ単に歯にはDNAがあって、歯一本でその人の情報が分かるし、髪の毛みたいに頻繁に切るものじゃなくて、ずっとあり続けるくらいの理由で自分を歯にしたんじゃないかと思う。青木との対峙のシーンP83でも「脳でもええんじゃ、なんでもええんじゃ」いうてるし。
 
これが以下に述べる東洋哲学の部分と少しずれがある。

思ったこと②わたくし度合=ヤージュニャヴァルキヤの思想

 急であるがまずは読んでほしい。
 このわたくし度合はヤージュニャヴァルキヤ(以下、彼という)の思想に通ずるものを感じる。彼は代表的なものだと、「アートマン(我、自己)=認識するもの」、「アートマン(我、自己)は非らず、非らずでしか語れない」と唱えている。
 これは私なりの解釈だと、そもそも(脳とは別に)"認識するもの"という何かがあって(それは謂わば自分を後ろから見ている感じ、背後霊的なもの)、自己とはすなわちその「認識するもの」である、としてしまう!(この結論に至るまでの思考実験?気になった人は「水槽の中の脳」とかデイヴィッド・チャーマーズとかを調べてみてね。)とにかく、ここでの結論は私=認識するものであるということ。
 そうすると、自己≠脳となる。なぜなら脳も認識の対象の一つでしかないからだ。背後霊的な自分がいたとして、そいつが”認識するもの”として、脳より先行して存在している。だからそいつが自分の肉体をみて、ああ腕だなとか、ああ歯だなとか、思うのと一緒で、脳も別にその対象の一つにすぎない。
 だから、彼はアートマン(我、自己)は〇〇でないという形でしか語れないと言っている(ハズ)。(ここではわかりやすく背後霊と置いたが、そもそもそんなものはいないので。)

そしてようやく、本題であるが、

 本書のあらすじでは「人はいったい体のどこで考えているのか。それは脳、ではなく歯――人並みはずれて健康な奥歯、であると決めた<わたし>」とある。
 一般的には本書でも述べられているとおり、脳で思考していると考えられている。そしてヤージュニャヴァルキヤは、そもそも自分なんていなくて、自分を構成するものは脳ですらないと言っている。
 つまりこの物語では、この自分とは何かというところにフォーカスするのではなく、ヤージュニャヴァルキヤの理屈じみた面白くないことはさて置いて、私を私たらしめているのは「歯」であると言い切っている。そういうものとして捉えた主人公視点で話が進んでいく。あまりにも面白い。

思ったこと③思想の現れ的なところ

その1

 少し戻りますが、ヤージュニャヴァルキヤは「アートマン(我、自己)は非らず、非らずでしか語れない」と唱えたと上で書きましたが、自己="認識するもの"とした今ならなんとなく理解できると思います。つまり、「認識するものを認識した!」と言っても「「認識するものを認識した」と言っている認識するもの」が必ず存在してしてしまう(無限遡行で調べてみてください)。これを本書では、P82

自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何でできているかゆうてみい、一人称なあ、あんたらなにげに使ってるけどなこれはどえらいもんなんや、おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるもんなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私とおもってる私と思ってる私!!これしぬまでいいつづけても終わりがないんや

わたくし率イン歯ー、または世界

といっている。もうまさに哲学やんけ、ヤージュニャヴァルキヤやんけ、アートマンやんけ、無限後退やんけ、思いましたね~~~~。おもしろい!!
 そしてこの無限後退を終わらせるための「歯」!興奮とまらなかった。
参考:https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm

その2

P105抜歯のシーンで明かされる壮絶な過去がある。わたしを歯に置換するという行為にはある種の防衛本能の働きがあったのだと思う。
 これはヤージュニャヴァルキヤの私=認識するものという考えと構図は同じである

  • ヤージュニャバルキヤ:肉体の私←対外ストレスはここにしかかからないアートマン(我)にストレスはかからない。

  • 主人公:(私を置き換える→)歯←対外ストレスは歯にしかかからない。⇔主人公自身はそれで身を守った。

まあ要するに歯を身代わりにしているよね~ってことなんだけれども、こういう捉え方もあっていいと思う。というか逆にヤージュニャヴァルキヤの考えってこうだったのかな?

思ったこと④梵我一如

本書P105青木とのゴタゴタのあとの抜歯のシーン

ほいで、奥歯を抜いてもらうんよ、舌のうえにわたしが寝て、んでわたしの口の中の舌のうえにながいあいだ私でおってくれた奥歯が抜かれてそっと置かれて、それを、いま、誰かが見てる、何かが見てる、何かわからへんけど、それをずっとうえのほうから、これを見てる、これをしてる、寝転んでる私をわたしを、この入れ子を、経験しているものがあって、私をこえて、わたしをぬけて、してるものがあって、それがきっと、それがきっと、雪国のあのはじまりの、わたくし率が、限りなく無いに近づいてどうじに宇宙に膨んでゆくこのことじたい、愉快も不快もないこれじたい、青木がわたしに教えてくれた、何の主語もない場所、それがそれじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思うがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界、思う、それ

わたくし率イン歯ー、または世界

前半はまさにアートマン、後半はもうまさに梵我一如の根本に通じるものがあるように思える。
 梵我一如とは「宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個人の主体であるアートマン(我)が同一である」いうことであり、紀元前からあるインド哲学の考えである。そして、インド哲学ではこの思想を通じて輪廻を説明していくのだけれど、この主人公は別にそういう訳ではない。
 しかしここでは、アートマン(我=歯)を抜歯で物理的に殺して、無にして、ブラフマンと同化する。「わたくし率が、限りなく無いに近づいてどうじに宇宙に膨らんでゆくこのことじたい」。これは多分そういう意味なのだと思う。恐ろしい。こんな考え浮かぶはずがないよ。

感想①

 西洋哲学は基本的にベクトルが外に向いていて、だからこそ世界の心理を解き明かしていこうとしている。漫画、アニメの「チ。」が最もそれを分かりやすく表現してる。対して東洋哲学はベクトルが内に向いていて、"悟り"だとか、自分とは一体何者なのか、を解き明かそうとしている。だから少なからず、悩んだときの対処だとか生きやすくなる方法的なものも含んでいて、その結果としてヤージュニャヴァルキアの思想だとか梵我一如があるはずなのに、この小説では、壮絶な過去、現実からのダメージを歯に身代わりにさせ、それでも受け止めきれなくて、破綻した末に間接的な自殺の上でこの思想に至る。最終的に同じ結論だとしても、なんというかあまりにやるせない気持ちになる。
 また、最後の段落は、視点は主人公であるのに、主人公の気持ちだとか考え、世界の捉え方、感じ方が一切出てこないあまりに不気味な世界。だけど、一見するとそっちの方が世界は円滑に回る。でも本当にそんな世界でいいの?と問われている気がした。
 一方で「哲学的な生きやすさ追求しても、その先に自分が生きていて意味のあると思える人生、生きていて楽しい人生があるとは限らない」とも感じたし、それは今後考えていきたい部分でもあった。
 梵我一如に通ずるなにかを悟ったあとの主人公はこのまま、まるで語り手の視点で生きていくのかもしれないが、そこにはあまりに自分というものがない。観客として死んでいく人生は私はいやだな。
 だから自分を歯に置くな!とか、哲学なんて無駄とかそういう意味ではなくて、私自身も哲学は好きだし、色々な本を読み漁っているし、それはこれからもやめるつもりはないけど、「こう考えればストレスフリー!」だとか昨今のマネタイズされた上辺の哲学的な何かに囚われえるのではなく、当時の哲学者が、どういう社会的背景のもとで、どういう人生を生きてその思想に至ったかを咀嚼したうえで吸収し、自分の人生にのめりこむために哲学したいと改めて感じた。
 最後に、心の底から、主人公に幸あれ、と思う。

感想②

 川上未映子の小説はまるで口語かと思うような筆記で作者の世界観をそのまま文字に起こしたような感覚になる。読むたびに驚きがあり、そして楽しい。本当に読書の真髄を味わわせてくれる。
 今回読んでいて興奮したのは、P104の「痛みが痛みで、痛みが痛みでありました、」~「黙って欲しい、みんなシャラップ」のあたり。これはもう主人公(作者?)の脳内そのもの。そしてその後、抜歯の痛みに耐えながら血で喉がふさがり、混濁した意識を感じさせるようなひらがなでの表現にはゾクッとする。
 そう思って読んでいると「ハローこっちが見えますか、」の辺りからはもう抜歯が終わったのかな?と思わせる主人公の意識を感じる。読んでて興奮した~~~~!

余談!

  • 初めてnoteを書いて、難しいけど面白かったので、気が向いたときに読書感想とか、普段思っていることとかを書いていきたいと思います。

稚拙で浅慮な考察をここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。

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