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人は正しさではなく、同じかどうかで人を裁く

1. 言葉を持った猿たち

人間には言葉がある。
言語的コミュニケーションができるから、サルとは違うと誰もが思っている。しかし、実際には、猿と全く変わりない。"人間が言葉を交わす目的は、その言語的意味にはない"からだ。何を言っているかではなく、誰が言っているか、どの雰囲気で言っているか。それだけが重要なのだ。

猿山のサルたちは言葉を持たない。しかし、彼らは一目で敵と味方を見分ける。自分たちと同じ匂い、同じ動きをするかどうかで判断する。人間も同じだ。「正しいかどうか」など問題ではない。自分たちと同じ雰囲気をまとっているかどうか。それがすべてだ。

2. 集団の秩序維持と排除の本能

集団には秩序を維持する自動機能が備わっている。そして、その「秩序維持」とは、異物を排除することに他ならない。人は社会的動物だからこそ、集団の中で生きることを強いられる。その中で異物として認識された者は排除される。それは理屈ではなく、本能の領域だ。

たとえば、いじめ。学校でも職場でも、いじめの理由は常に曖昧だ。「気に食わない」「なんとなく違う」「空気が読めない」。要するに「自分たちと同じでない」ことが問題なのだ。いじめの加害者は「正義」を掲げることが多いが、本質は違う。集団の秩序維持のために、異物を排除しているにすぎない。

3. 価値観ではなく、雰囲気で判断される社会

現代社会では、正しさや論理が重要視されているように見える。しかし、実際には違う。人間の判断基準は、論理ではなく「雰囲気」なのだ。言葉を交わすとき、相手の言っていることを理解しているようで、実は雰囲気を見定めている。

「この人は自分たちと同じか?」
「違う雰囲気を持っていないか?」
「異物ではないか?」

それが無意識のうちに行われている。正論を述べたところで、それが集団の雰囲気に合わなければ無意味だ。結局、人は「正しいかどうか」ではなく、「同じかどうか」で人を裁く。

4. 人間の本能を超えられるか?

この構造は、学校でも、会社でも、政治でも、ネット上でも変わらない。違う者は排除される。言葉があるからこそ、一見、サルたちとは異なるように見える。しかし、本質的には同じだ。

では、人間はこの本能を超えられるのか? それは難しい。だが、少なくともこのメカニズムを理解することはできる。自分が集団の雰囲気に流されていないか、自動的に異物を排除しようとしていないか。意識することが、唯一の抵抗なのかもしれない。

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