贖い主、回復の神
[列王記 第二 6:5,6,7]
一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。
今日の聖書箇所
I列王6:1〜14
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
エリシャによる奇跡の物語が続きます。
エリシャと預言者の一団の住む家が狭くなり、新しく家を建てることになりました。そのために皆でヨルダン川に木を切りに行くのですが、そこで一人が斧の頭を川の中に落としてしまうのです。それは借り物でした。
当時は鉄製品が高価であり、それを弁償するとなると大きな負担になったのです。預言者たちの家というのは今で言えば教会堂のようなものです。それを新しく大きく建てようとすることは主も喜ばれることであり、主の働きを拡大することです。
しかしそのような善いことにチャレンジしている時にこのような問題が起こったのです。私たちは主の御心をなぜば全てが順調にうまく行くように思ってしまうのですが、そうではないのです。
主の御心を行う時、また何か新しい善いことにチャレンジする時には問題と困難が起こっていくのです。それを祈りと信仰によって乗り越えていかなければ主の御心を行うことはできないのです。
また斧の頭を落としたことは人間の失敗であり、不注意です。このようなことが起こった時、人は失敗をした人を責めたり、咎めたりします。そうなるとせっかくの良い雰囲気ややる気が急速に失われてその働きが挫折してしまうこともあります。
エリシャはこの人の失敗を何一つ責めることなく、一本の木の枝を沈めて斧の頭を浮かび上がらせるのです。それによって再び木を切る作業を再開して、新しい預言者の家を建てるという当初の計画を成功させることができたのです。
このような奇跡の中にも主のご性質が現れています。
聖書の神、主なる神は贖い主であるということです。贖いとは代価を払って買い取るとか、負債を弁償して元の状態に回復させるという意味があります。
私たちはこの罪の世界に生まれ、どんなに頑張ったとしても罪を犯してしまうものであり、失敗してしまう者なのです。そしてその罪と失敗の結果、大切なものを失ってしまうことも多くあるのです。
そのような時、人はこれが悪かったから、あれが悪かったからと責めたり、批判したりすることしかできないのです。そしてそんなことをしても失ったものは戻ってくることはありません。
しかし主なる神は贖い主であり、そのような私たちの罪と失敗を恵みによって覆ってくださり、失ったものを回復させてくださるお方なのです。
私たちの罪と失敗を黙って代わりに引き受け、失ったものを恵みによって回復させてくださるのが聖書の神であり主イエス・キリストなのです。
預言者エリシャの奇跡は一見すると何の意味があるのか?斧の頭などどうでもいいことではないかと思ってしまいますが、そこには主なる神の贖い、恵みによる回復という大切な働きが現されているのです。
若者が失敗して斧の頭を落とした時にエリシャにそのことを叫んだように、私たちも罪を犯し、失敗して何か大切なものを失った時に主なる神に、主イエス・キリストに叫ぶ時に、主はそれを贖って、回復してくださるお方なのです。
それはお前の罪の結果だからもうだめだ、それはお前の失敗だから仕方がないとは言われず、失った痛みを携えて私のもとに来なさい、私がそれを贖い、それを回復させると言ってくださるお方なのです。
人はみな弱さがあり、罪を犯し失敗してしまう者です。しかしそんな私たちに贖い主、回復の神がおられるならどれほど心づよいことでしょう。何を失ったとしてもこの贖い主なる主イエス・キリストのところに駆け込んで、回復の恵みをいただいていきたいと思います。
そしてエリシャのように私たちも聖霊に満たされてこの贖い主を人々に現していく神の人になりたいものです。
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