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魂を生き返らせる声

[列王記 第一 19:11,12,13]

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

今日の聖書箇所
I列王19:11〜21

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ホレブの山についたエリヤは洞窟に入ります。洞窟の中に隠れているエリヤの姿はその霊的精神的な状態を現しているようにも思えます。

すっかり失望落胆して、孤独感と疲れに打ちひしがれているエリヤがいます。

そのようなエリヤを主は外へと引き出し、山の上に立たせます。そこでエリヤはさまざまなしるしを体験します。大風、地震、火によって主がエリヤの前を通り過ぎるのです。エリヤは主が大風によって敵を吹き飛ばし、地震によって敵を滅ぼし、また火をもって敵を焼き尽くすことを期待していたかもしれません。そのような力強いしるしと不思議によってさらに主が働いてくださることを求めていたかもしれません。

しかしそれらの目に見えるしるし、現象の中には主はおられませんでした。それらの現象を通してはエリヤは主と出会うことができなかったのです。

それらの現象の後に主はかすかな細き御声が聞こえ、そこに主がおられたのです。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と尋ねます。これは主がエリヤに霊的な目覚めを起こさせるためでした。

エリヤは激しい失望落胆と恐れによって燃え尽き状態となっていました。そのような状態でエリヤは正しい状況判断や自己認識ができなくなっていたのです。エリヤは主なる神に愚痴をこぼします。

[列王記 第一 19:14]

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

エリヤは自分のなしたことは何もかも失敗だと思い、また全ての神のご計画も挫折したと思い、さらに自分はたった一人で誰も仲間はいないと思っていたのです。

しかし実際はそうではなかったのです。神のご計画はエリヤの思いをはるかに超えて大きなものでした。エリヤは神の御心を成し遂げたのであり、神はイスラエルに対してエフーとアラムのハザエルを通して実現するご計画を備え、またエリヤの後継者としてエリシャを備え、さらにはバアルに膝をかがめない、主なる神だけを礼拝し、仕える者たちを7千人も用意しておられたのです。

[列王記 第一 19:15,16,17,18]

主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

エリヤは驚いたことでしょう。そして自分の小さな考えで神のご計画も全て失敗したと思っていたことを悔い改めたことでしょう。主なる神はエリヤの考えと計画、予想をはるかに超えるご計画を備え、それは確実に成し遂げられていたからです。

エリヤはホレブの山の洞窟に引きこもってもう死にたいと愚痴を言っている場合ではなかったのです。エリヤにはまだまだこの地でなすべき使命があったからです。

エリヤはこの主の御声を聞いて目が覚め、うつと燃え尽き状態から回復し、立ち上がることができました。新しい使命を自覚することができたからです。

私たちもまた自分中心の狭い視野で考えていると、主の働きをなすことも、主からの使命を果たすこともできなくなってしまいます。やがて疲れや燃え尽き、うつ状態になって倒れてしまいます。

そのような時は主の御声を聞いて、霊の耳を開いていただかなければならず、また主の大きなご計画を知って、霊の目を開いていただかなければならないのです。

主はしるしと不思議という現象を通してそのご計画を実現されるのではなく、その御声、その御言葉を通して働かれ、そのご計画を実現してくださいます。

それゆえいつも主の御声を聞いて、その御言葉を聞いて、信仰を保ち成長させていくことが何よりも大切です。

私たちは神を信じている、イエス様を信じていると言っていても時に罪と世とサタンとの戦いに疲れ果て信仰をすっかり失い、燃え尽きそうになってしまいます。そのような時は魂を生き返らせる主の御声、主の御言葉を聞いていかなければなりません。

どんなに小さな細き御声でも主の御声を聞くならば、死にそうになっていた私たちの魂は生き返るからです。そして主の御声を通して新しい使命をいただくならどんな失望落胆の中からも私たちは立ち上がることができるのです。

[申命記 8:3]

それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

日ごとに主の御声によって目を覚まし、主の御言葉によって生かされる者となりたいものです。

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