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その打たれた傷で癒やされます
[マルコの福音書 15:17,18,19]
そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
今日の聖書箇所
マルコ15:16〜23
今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきましょう。
イエス様が十字架に向かわれる痛々しい場面です。
クリスチャンですと言ってもその人が十字架を理解しているとは限りません。イエス様を信じていますと言っても十字架につけられたイエス様と出会っているとは限りません。
ここにはイエス様を嘲弄し侮辱するローマの兵士たちがいます。そこにはローマの兵士たちが日頃の溜まっていた怒りや恨みを抵抗できない死刑囚となったイエス様にぶちまけて発散させている姿があるように思います。
このように残酷なローマの兵士たちの姿を見て何て酷いんだ、酷すぎると思われるでしょうか?
実は私たちの内側にもそのような怒りや恨みが蓄積していることが多くあるのです。最初の人アダムが罪を犯して以来、人間はお互いに傷つけ合い、罵り合い、最後には殺し合う存在となってしまいました。
愛し合うべき関係なのに傷つけ合うことしかできず、全ての人が大小の差はありますがその傷による怒りと恨みに苦しんでいるのです。そしてその怒りと恨みは弱い者に向かい、いじめや虐待となって現れていきます。そのようにして怨念を晴らしているのです。
ある人はその怒りや恨み、怨念が外側に向かうのでは内側に向かいます。そうすると心の病となったり、自殺願望となっていったりするのです。
一点の罪のない神の御子がこのように兵士たちの怒りと侮辱を一身に受けておられる姿は実は私たちの内側にマグマのように溜まっている自らの罪と人の罪に対する怒りと恨み、怨念の全てを引き受けておられる姿でもあるのではないでしょうか?
どうして自分はこんな家に生まれ、こんなひどい目に会い、こんなひどい人生を生きなければならないのか?そんな言いようのない怒りと恨み、怨念の全てを罪なき神の子羊イエスが全て身代わりに引き受けてくださっていた・・・
その事を悟った時、イエス様の十字架が自分の十字架となり、イエス様の打たれた傷によって癒やされ、イエス様への懲らしめが平安をもたらすものとなるのです。
[イザヤ書 53:5]
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
クレネ人シモンはたまたまイエス様の十字架の場面に出くわし、ローマの兵士たちによって十字架を無理やりに負わされました。
何も知らず、何も分かっていなかったのですが、十字架につけられるために血だらけになって、傷だらけになって何度も倒れながら歩かれるイエス様を隣で見ることになったのです。
彼はそれを見ただけでこの方がメシアであることが分かってしまったのでしょう。それゆえ初代教会のリーダーの一人となり、その息子たちアレクサンドロとルフォスも初代教会で有名な弟子となったのです。
[マルコの福音書 15:21]
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
私たちもまたどんなに苦しくても十字架につけられたイエス様から目を逸らさず、十字架につけられたイエス様をしっかりと見つめていきたいと思います。もう知っている、分かっていると逃げないようにしましょう。
私たちもクレネ人シモンのように十字架につけられたイエス様と出会う時にその打ち傷による癒しを受け取り、その懲らしめによる平安を受け取ることができるからです。