懲らしめから学ぶなら回復します
[ゼパニヤ書 3:7]
わたしは言った。『あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ。そうすれば、わたしがこの都をどれほど罰しても、その住まいは断ち切られない。確かに彼らは、繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』
今日の聖書箇所
ゼパニヤ3:1〜8
今日もゼパニヤ書から恵みをいただいていきたいと思います。
ゼパニヤはエルサレムの町に対する厳しい裁きを容赦なく宣告します。
[ゼパニヤ書 3:1]
わざわいだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都。
そしてエルサレムに対する裁きはその指導者たちに最も重い責任があることを明らかにするのです。
[ゼパニヤ書 3:3,4]
その都の高官たちは都の中で吼えたける雄獅子。その都をさばく者たちは夕暮れの狼。朝まで骨をかじってはいない。預言者たちは、ふしだらで裏切る者。祭司たちは聖なるものを冒して、みおしえを冒瀆する。
高官たちも、裁判官も、預言者たちも、祭司たちもみな貪欲で不正に満ちていたのです。指導者たちは民に迎合し、不正な利益を貪っていたのでした。しかし指導者たちの本来の役割とは民に律法、神の御言葉を教えて、民を悔い改めに導くことだったのです。
そうするなら嫌われ、煙たがられることもあったでしょう。しかしそれでも言うべきことは言わなければならなかったのです。それが指導者の責任でした。しかしエルサレムにはそのような指導者は誰もいなかったのです。それゆえ神の厳しい裁きが下されるしかなかったのです。
エルサレムもユダも上の者から下の者まで救いようもない状態でした。それゆえ神の聖なる裁きは避けることができなかったのですが、それでもゼパニヤは一筋の希望を語るのです。
それは神の裁きのただ中で主を恐れ、主の戒めを受け入れる者が起こることでした。神の裁き、懲らしめがない方がいいに決まっています。しかしたとえ神に裁かれ、懲らしめられてもそれを通して悟り、悔い改め、主の戒めを受け入れる者が起こるなら、そこから回復は始まるからです。その時、神の憐れみは再び注がれ始めるからです。
神に懲らしめられてどんなに悲惨な状態になったとしても、それを通してへり下り、悔い改めるならそこから神の憐れみは再び注がれ、恵みによる回復が始まっていくからです。
反対に悔い改めなければ、どれほど祈っても叫んでも泣いても回復はないのです。痛みを通して学ぶ人、痛みを通して悟る人に回復が与えられていくと言うことです。
痛みと悲しみ、挫折を通して主を恐れることを学び、戒めを受け入れて悔い改める者となり、神の恵みによる驚くべき回復へと導かれていきたいと思います。間違っても痛みを通してますます頑なになって滅亡に至ることがないようにしていきたいものです。
今日の祈り
主よ、懲らしめを無駄に受けないように憐れんでください。悔い改めを先延ばしにするのではなく、すぐに悔い改める砕かれた心を与えてください。
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