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【#65 : 記憶の外にある風景】

私の中に「記憶にもないあの頃」があります。それは赤ん坊の頃、まだ言葉も知らず、世界を理解する手段が泣くことしかなかった時代のことです。その頃の私は何を見て、何を感じていたのでしょうか。目の前の世界はどんな色に映り、どんな音が響いていたのでしょうか。

母はよく、私が赤ん坊だった頃の話をしてくれます。「夜泣きがひどくて大変だったのよ」と笑いながら話す姿に、私はいつも胸が詰まる思いがします。泣き疲れて眠る私を抱きながら、母も眠れぬ夜を過ごしていたのでしょう。その記憶が私にはありません。ただ、母の腕の中の安心感だけが、深いところに小さな種のように残っている気がします。

成長するにつれ、自分の記憶は徐々に広がり、鮮明なものになっていきました。けれども、その始まりの部分――記憶の外にある時間は、私の人生の大切な一部でありながら、霧の中に隠された謎のような存在です。写真や家族の話を通して、私の知らない「私」を垣間見るとき、なんとも言えない不思議な感情が胸に込み上げます。

例えば、アルバムの中の幼い私が笑顔で座っている写真。背景には古い家具や、今ではもう使われていない食器棚が映り込んでいます。その風景が、どれだけ多くの愛情と日々の営みの上に成り立っていたのかを思うと、私の知らない「記憶の外の時代」に胸が熱くなります。そして、あの頃の私を育ててくれた手のぬくもりが、今でも私を包んでいるような気がするのです。

記憶がないからこそ、あの頃の私は完全に他者任せだったのだと感じます。私が泣けば誰かが抱き上げ、私が空腹を感じれば誰かが食事を与えてくれた。その「誰か」は、母であり、父であり、祖父母だったのだと思います。彼らが私を守り、愛し続けてくれた時間が、私という人間の根っこをつくっているのです。

ふとした瞬間、記憶の外にあるあの頃を思うと、自分がどれほど多くの人に支えられてきたのかを強く感じます。忘れてしまった過去の中に、確かに存在した愛情。その愛情が、今の私にまで続いていることに気づくと、胸がいっぱいになります。

私たちは、記憶にない頃の自分を知ることはできません。それでも、その時代が確かにあったことを、私は誰かの語る言葉や写真から感じ取ります。そして、今の私を支える見えない力が、あの頃に始まったのだと信じています。

記憶の外にある風景は、私にとって永遠の謎であり、温かな光です。その光は、今も私の心の奥で静かに輝き続けています。



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