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自分のキャラクターを作るということーふたりのえびすー

最近のゲームソフトでは、ゲーム本編が始まる前に、アバター作りをすることがある。主人公の外見などを自分で設定し、そのキャラクターでゲームを遊ぶことで、より没入感のある体験をすることができる。

もちろん、ゲームの世界観に合うキャラクターの追体験を目的とするゲームにはアバター要素は必要ないし求められてもいないが、以前に比べて現在のほうが、アバター作りに期待されており、何万通りの組み合わせがあるだとか、ふくらはぎの太さや眉毛の角度まで設定できる!ということがゲームの売りになる場合もある。

しかし、私はこのアバター作りが苦手である。
優柔不断な性格や、造形が苦手であることが大きな理由だが、それだけではないように思う。まず、ゲーム世界や主人公の内面をまったく知らないままに、外見から考え始めるというのに苦手意識がある。内面を想像しながらアバターの外見を決めることで、これからどんなストーリーが展開されるかも分からないうちから固定概念を無理に作ってしまい、想像の余地(キャラクターのもつ可能性)を狭めてしまわないかと不安になる。

しかし、ゲームのアバター作りが苦手な私でも、自分自身のキャラクターは日常的に作っている。

例えば仕事中。教師のなかには、もちろん元から学校の先生っぽい人格もいるが、たいていの人は、徐々に先生らしくなっていくものなのではないだろうか。

それは決して、悪いことだとは思っていない。自分のキャラクターを作ることが子どものためになるのだと考えているからだ。
小学校の教師になったばかりの頃は、喋っていても「学校の先生っぽくないね」と、子どもから言われることがたびたびあった。その言葉は、どのようにも捉えることができるだろうが、私はそう言われて、自分は子どもの期待しているものを提供できていないのだと感じた。自分のしたいこと、言いたいことを大事にするのも良いが、子どもの期待に応えるために、教師らしいふるまいをすることも大事なのだと考えた。

髙森美由紀『ふたりのえびす』に登場する、太一と優希の二人は、時期は違うがどちらも転校生だ。

太一は、本来はおとなしい性格だが、前の学校でうまくいかなかったのを払拭するために、おちゃらけたキャラクターを演じている。よくギャグを言うが、それは「言いたい」というよりは「言ったほうが良い」と判断してのことだ。他人が作った料理がどうしても食べられないが、キャラクターに合わないため、隠している。
優希は、名字をなぞらえて、「王子」と呼ばれている。前の学校でもそうだったが、「王子」というキャラクターを作られることに抵抗を覚えている。優希もまた、過去のキャラクターを払拭しようとしている。

もちろん、キャラクターを作ること自体は悪いことではない。ではなぜ彼らが苦しんでいたのかというと、本心とまったく違うキャラクターを演じなければならなかったり、勝手に当てはめられていたりしたからだ。

冒頭で、キャラクター作りをするということは、内面を決め、固定する作業だと書いた。ゲーム内のアバターは、途中で性格が変わることは稀だ。勝手にプレーヤーの想像を超えた言動をすることは珍しい。

だが人間は違う。途中で内面が成長したり、変化したりすることはしょっちゅうだし、自分とはこういう人間だと思っていても、まったく違う行動をしてしまうことだってある。必ずしもキャラクター通りにいかないのが人間というものだ。

 キャラには助けられてきたが、本当のオレよりうそのキャラが強くなってきて、言ってみれば、キャラが主役になっていた。
 キャラをかぶっている時、本当のオレはそのかげで、息を殺して引っこんでいた。すっかり脇役だった。
 でももう、交代だ。

ふたりのえびす

太一は、「えびす舞」の踊りを「うそ偽りのキャラを取り去って、正真正銘の内村太一で挑戦」することができた。キャラクターからはみ出た本当の自分が、「やったほうが良い」ではなく、「やりたい」と考えて行動することができた。そこには、同じ転校生という立場であり、太一の本心を受け止められる優希との出会いも大いに関わっているだろう。

私たちは人との関わりの中で人格が生まれ育ったり、キャラクターが作られたりする。ときにそのキャラクターが自分自身を縛ることもあるが、そのキャラクターを乗り越える力もまた、人との関わりを通して生まれるのだ。

太一はこれから、どのように学校生活を送っていくのだろうか。おちゃらけたキャラクターは継続していくのだろうか。きっと需要があるし、人を喜ばせることも大いにあると思う。突然おとなしい性格の潔癖症を全面に出されても周りを困惑させるだろうし、それはそれで作られたキャラクターという感じもする。

まぁ、難しいことは考えず、太一の好きにするべきだ。
「やったほうがいい」「言ったほうがいい」と、自分のキャラクターに沿って行動を決めようとすると、同時に「これはやってはいけない」「これは言ってはいけない」が存在してしまう。
でも、「やりたいこと」「言いたいこと」で決めるなら、そこには良いも悪いもない。そのうえで、「おちゃらけたい」「周りを笑わせたい」というのであれば、それはキャラクターではなく、人格と呼べるのかもしれない。

ふたりには、作り物ではなく、心からの恵比須顔でいてもらいたい。


『ふたりのえびす』は、2023年の読書感想文(小学校高学年)の課題図書です。

読書感想文の書き方を指導するにあたり、まずは自分がと思って書き始めました。
そういうわけで、「読書感想文を書くぞ~!」と意識して書きましたが、やはり難しいですね。
一回、途中まで書いた文章を丸ごと消去し、完成を諦めかけましたが、そんなことをして子どもに何を教えられるのかと思い留まり、何とか書き終えることができました。

これもまた、教師としての自分を作るための文章だったというわけです。

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