映画「セッション」 感想

突如として投稿しようという意欲が湧いてきたので、何について書こうかなと考えたのですが、最近見た映画「セッション」が面白かったので、感想を話そうと思います。(ネタバレ要素あり)

まずざっくりとした話の内容です。
音大でドラムを専攻していたニーマンという学生が、練習していたところをたまたまフレッチャーという教授に見つかります。教授はニーマンに対して自身が指揮する(フレッチャーは指揮者です)グループに来てみないかと誘い、ニーマンは実際にその楽団に入ることになりました。しかし、そこで待ち受けていたのは気が狂いそうになるほどのスパルタでした。ニーマンにあった当初は優しそうに接していた教授も、本性はクレイジーという言葉が似合う鬼教官でした。そんな環境でも必死に食らいついたニーマンは、楽団が参加する発表会で主奏者に選ばれます。しかし会場に向かうバスのトラブルにより当日の集合時刻に遅刻してしまいます。フレッチャーは遅刻したニーマンではない奏者を起用しようとしますが、ニーマンは主奏者の座を譲ろうとせず、結局ニーマンが務めることになります。しかし、会場に向かう途中で怪我をしてしまったのでその傷が疼き、ドラムを叩くこともままなりませんでした。醜態を晒したニーマンにフレッチャーはいつものようにブチギレ、しかしニーマンがそれに対抗し、なんと舞台上で取っ組み合いになります。発表会は結局中断、ニーマンとフレッチャーは共に音大から退きました。

それからしばらく経ち、ドラムから離れていたニーマンはたまたま放浪していた途中でフレッチャーがピアニストとして演奏していたジャズバーに入ります。そこで再開した2人。フレッチャーは、なんと新しいジャズグループのメンバーとしてニーマンを誘います。困惑したニーマンは、二つ返事でコンサートにメンバーとして出演することになります。

そして当日。いよいよフレッチャーたちの出番がやってきます。そこでフレッチャーはニーマンにこう言います。「密告したのはお前だろ。俺を舐めるなよ。」実は、ニーマンは音大出身の生徒にそのスパルタすぎる指導について学校に密告されて辞めていました。匿名と思われていましたが、フレッチャーはそれをニーマンの仕業であると気づいていて、あえて復讐のためにメンバーに誘ったのでした。復讐する気しかないフレッチャーは、ニーマンが一回も練習していない初見の曲を指揮しだし、それがわからないニーマンは雰囲気で叩きましたが、全く噛み合わず、観客に醜態を晒します。ニーマンは耐えかねて、ついにコンサート会場から帰ろうとします。鑑賞に来ていた父とハグを交わし、帰るのかと思いきや、急に180度方向を変え、再び舞台上へと戻ります。ドラムの椅子に再び座ったニーマン。彼はそこで、勝手に曲を演奏し始めます。フレッチャーではなく、彼が主導でメンバーが演奏し始めます。何をやってるんだと怒るフレッチャーも次第にその状況に適応し、なんとその曲に合わせて指揮し始めます。最後は2人が向かい合ってまるで狂気と狂気がぶつかり合うように演奏が行われました。

少し長くなってしまいましたが、こんな感じです。実はこの映画は監督の実体験に基づくエピソードなのですが、現実でこんなことが起きていたら。確実にアウトです。しかし、映画として割り切ってみる中で、真っ向から否定することも難しい大きなテーマについて考えさせられます。それは、音楽に限らず、スポーツなどでもそうですが、何かで一流になるために倫理観を捨てるということは許容されても良いか否かということです。まさにこの映画は狂気という言葉が似合うのですが、その反面、これほど厳しい環境の中でもがいてきたから成功したという捉え方もできます。それだけ一流になるというのは厳しい世界だと思います。

僕個人としては、日本は一昔前までこういうことが美化する人が多く、少なからず僕もその影響は受けていると思います。一般的には否定されるようなことですが、狂気と没頭は紙一重で、一歩間違えば僕達もこの世界を肯定できると思います。1万時間?の法則というのがありますが、1万時間も同じことをするって狂ってると思います。しかし、成功している人の多くはこれに当てはまるわけで、それを僕たちは称賛します。その意味で、僕はこの映画を真っ向から否定できません。明確な答えを出す必要はないですが、生と死は隣り合わせのように(表現が適切か分かりませんが)、私たちはいつでも狂う可能性を秘めていんじゃないですかね。



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