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山田太一『チロルの挽歌』は高倉健の有害な男性性を描いたメンズリブドラマだった。
NHKで再放送された山田太一ドラマ『チロルの挽歌』を観たら、ド傑作だった。ドラマの中でとくに気になったのが、高倉健の有害な男性性とメンズリブ、大原麗子のポリアモリー宣言だ。いつもは吹替について書いてるが、今回はこれらのテーマについて考えてみる。
前編. 高倉健の有害な男性性とメンズリブ
『チロルの挽歌』について、評論家の川本三郎はキネマ旬報の連載の中で『高倉健自身のイメージを上手く使っている』と、評している。が、私としてはむしろ高倉健の負の側面を描いているように思える。このドラマは、高倉健の有害性について描いているから凄いのだ。
『チロルの挽歌』は平成が始まってまもない1992年に前後編として放送された。ストーリーは主にふたつの軸が同時進行する。1つ目は、お仕事パート。鉄道会社の技術者である高倉健が、サービス部門のある北海道に異動になり、リゾート開発に関わる。ところが、高倉健が無口なため市役所の人間や地元住民とのコミュニケーションが上手くいかず、誤解が生じてしまう。
2つ目は、高倉健と大原麗子の夫婦はコミュニケーションがなかったために、妻は娘を残して夫の同僚(杉浦直樹)と駆け落ちしていたのだが、なんとその二人は北海道に住んでおり、町で鉢合わせすることになるという私生活パート。
この2つのパートに共通して描かれるのは、高倉健演じる立石の有害性な男らしさだ。有害性な男らしさには、パワハラやセクハラ行為などの性差別的な言動をしたり、自分の中の弱さやつらさを否定し、弱さにもとづく感情を押し殺たり、家庭や職場で支配的にふるまうことなどが挙げられる。
無口で無愛想だから仕事相手と意思疎通ができず、すぐに手が出るうえに保守的な男女観を持っているため妻には出ていかれる。これは、悲しくもそのまま高倉健のパブリックイメージと通ずる。
高倉健といえば、昭和を代表する国民的映画スターなのに、いつ誰に対しても敬語で礼儀正しく、撮影現場でも椅子に座らないで直立しているなど、武田鉄矢にもはや講談として語られている存在だ。
一方、映画における主な役どころは任侠映画の主人公のイメージである。任侠映画の構造は、俗に「我慢劇」と言われる。任侠を重んじるヤクザの組が、目的のためなら手段を選ばぬ新興の組にいじめられるが、彼らは仁義を重んじるため黙って堪え忍ぶ。そして、親分や兄弟分が殺されるなどして、我慢の限界を迎えた主人公が敵地に殴り込みをかける。というフォーマットを高倉健は何となく演じてきた。
実際、高倉健は任侠映画ではない『遥かなる山の呼び声』や『新幹線大爆破』などでも、一貫してのっぴきならない状況下で暴力行使に出てしまった罪を負う男を演じており、多くの観客が高倉健=やむを得ない形で罪を背負った孤独な男と認識しているのではないか。
高倉健が得意とした黙って罪や痛みに堪える「昭和的男性像」は、自分のつらさや弱みを開示できる昨今の「令和的男性像」とは大きく異なる。近年では「昭和的男性像」は、フェミニズムや男性学の視点から「有害な男らしさ」として批判されている。山田太一はこのドラマで「昭和的男性像」を昭和の国民的スター高倉健に託し、平成という新しい時代の中で、そんな自分を変えようと奮闘する姿を描き出そうとしている。
前編のラスト、妻の駆け落ち相手(杉浦直樹)に出くわした高倉健は車を運転しながら鬼の形相でハンドルに腕をぶつけ続ける。真面目で堅実な男の怒りが頂点に達した時の、凶暴さ、恐ろしさ、秘めた暴力性。もしこのドラマが任侠映画ならば、不条理に耐えて耐え抜いた末に爆発させるフラストレーションの解放は観客に大きなカタルシスをもたらすだろう。しかし、これは山田太一ドラマである。
川本三郎曰く、『山田太一は一貫して普通の小市民を描き続けてきた。彼の生み出すドラマには殺人、暴力、過剰なセックスというものはまず描かれない』。だからこそ、このドラマの高倉健の暴力性は、あるいはその有害性は、視聴者により強烈なものとして印象付けられるのだ。
山田太一は実に巧妙に、高倉健が北海道のサービス部門に異動してきたのはそんな自分を変えるためだと明かす。このドラマには、妻とよりを戻すために自分を変えようとする高倉健の未練と奮闘が描かれている。害な男らしさを自覚し、態度を問い直すことを、「男らしさから降りる」と形容し、そのような男らしさからの解放を「メンズリブ」と言う。
以上のことを踏まえたうえで、このドラマは今風に言えば、中年シス男性が自身の有害な男性性に向き合うメンズリブドラマになってるのではないか。彼にとって、男らしさから降りるとは具体的に何を意味するのか。何をすれば男らしさから降りたことになるのか。後編に続く。
後編. 大原麗子のポリアモリー宣言
『まあね』『実はね…』『会社には言ってないんだけどね…』
これは娘と話す高倉健の台詞である。私は正直このドラマを観るまで、このような柔らかい口調で話す高倉健は見たことがなかった。そこには父権的な威厳ある父親ではなく、娘に甘い今風のパパが確かにいた。茶目っぽく下手なドイツ語を披露する父を見て娘は笑う。『(パパ、)変わった。喋るようになった』。高倉健は変わりりつつある。
さて、場面は変わって、気まずい人達が一堂に会すクライマックスである。『おれが身を引く!』『いや僕が最初に不義理をしたんですから、身を引くのは僕のほうです!』などと女を無視して男達が男らしく意地を張り合っているところに大原麗子が『格好付けなくていい。私は二人とも好き』と本音を語りだす。え、それって…
それって、ポリアモリーではないか。
ポリアモリーとは、wikiによると、『関与する全てのパートナーの同意を得て、複数のパートナーとの間で親密な関係を持つことまたは持ちたいと願うこと』を指す。
残念なことに、ポリアモリーと検索すると次に頭おかしいと出る令和にはまだポリアモリーを描いた日本のドラマはほとんどない。私の知る限り『私と夫と夫の彼氏』(観てない)だけだが、この平成初期に作られた、昭和を代表する国民的俳優である高倉健の主演ドラマが、明確に中年男女の男2女1のオープン・リレーションシップをひとつの答えとして描いているのだ。ぶったまげた。
男同士の痩せ我慢にしびれを切らした大原麗子は話し始める。『私の本音を言います。私はここを出ていく気はありません。この土地が好きです。この人も好きで、この人も好きです。あっちかこっちかなんて言わないで、3人ともこの土地で仲良く暮らしていけないでしょうか。若いうちは無理だけど、今なら年甲斐でそういうことやっていけないでしょうか。』
『いい歳をした男だから言えるんじゃないでしょうか。人生格好つけたまま通せるほど、短くないんです。色んな生き方見つけていいんじゃないでしょうか。』
果たして、元夫と現夫、つまり高倉健と杉浦直樹は、大原麗子の提案を覆さなかった。高倉健と大原麗子は同棲するが、週末になると大原麗子は杉浦直樹の職場に顔を出す。そういう持続可能な関係性に決めた。男達は自分の本音を押し殺し、意地と面子を優先したり、悩みながらとにかく終始のたうち回っている。対して、女である大原麗子の言動は一貫しており最初から最後まで全くブレがない。彼女はドラマの登場人物の誰よりラディカルで、アクティブで、迷いなく、初めからひとつしかない結末を知っていたいたかのようだ。
ラスト、開発工事の作業員がなだれ込むのを見ながら『時代が変わった』と立ち尽くすこのドラマの男達は、醜くもがきながらも、昭和の終わりと父権の喪失を静かに諦め、受け入れているようにも見えた。挽歌とは死者をいたむ詩歌のこと。まさにこのドラマは父権の喪失、昭和的価値観の終わりを男達の死に見立ていたのではないか。
自身の有害な男らしさを自覚し、苦しみながらも新しい時代や価値観に身を委ね、妻のポリアモリーの提案を受け入れる。山田太一『チロルの挽歌』は、高倉健の有害な男性性を描いたメンズリブドラマだった。