ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈ヨーロッパ編〉


ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは

 アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。

 「ワイナリーの四季」には基本セットに加えて、ゲームに様々な追加要素を付け足すことのできる拡張セットがいくつか発売されていますが、中でも全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を全世界に広げる「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」では、アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸それぞれに「イベントデッキ」が用意されており、いずれか1つのデッキを使ってワイン生産史をなぞりながらゲームを勧めます。時間が止まったりはしません。

 今回は難易度「通常」のヨーロッパデッキの題材となっている、19世紀後半に起きワイン産業に大激変を齎したフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)禍と、その後のワイン産業について詳しく見ていきたいと思います。

フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)とは

 フィロキセラは北米大陸東海岸原産の昆虫で、和名は「ブドウネアブラムシ(葡萄根油虫)」。そう、アブラムシです。何かの植物に小さい緑の菱形の虫がみっちり集ってるところ、見たことないですか? 奴です。奴らの仲間です。フィロキセラの体長は小さく1~2mm程だそうで、他のアブラムシと同様に寄生した植物の汁を吸って枯らし、翅を持たないメスによる単性生殖を行うため爆発的に増えやすく、増え過ぎると翅を持つオスメスが移動先で有性生殖を行うと言う特徴を持っています。
 寄生したブドウの木の葉や根に卵の入った瘤を作る性質があり、葉に寄生するのは有性生殖する有翅型のオスメスで、単性生殖する無翅型のメスは根に寄生します。また有翅型のメスも根に移動して単性生殖を行えるそうです。葉に寄生したものは農薬や天敵による防除も可能ですが、根に寄生したものにそうした手段は取りづらく、2023年現在でも完全に駆除する方法は確立されていません。しかも根を駄目にしてしまうため、寄生されれば宿主となったブドウの木は枯れるしかありません。そして宿主が枯れれば容易に近くの木へ移動するため、ブドウが枯れた頃に根を確認しても姿を確認できないと言う、まさにブドウの天敵と言える昆虫です。

 なおアジア編でも触れましたが、ざっくり解説しておくとブドウの原産地は全陸地が繋がっていた頃の西アジアで、氷河期と大陸移動でブドウの繁殖地は分断し、西アジア、東アジア、北米大陸南部に分かれました。
 フィロキセラの原産地は北米大陸ですが、では北米のブドウが絶滅したかと言うと、そうでもありません。北米に自生していたアメリカブドウはフィロキセラに適応して、フィロキセラが汁を吸いにくい粘質の樹液と硬質の根を獲得しました。こうしてフィロキセラとアメリカブドウは共生関係となったのです。
 北米大陸でのワイン作りはヨーロッパ人が入植した16世紀から始まりましたが、それらのワインは北米に自生していた野生のアメリカブドウや、ヨーロッパから持ち込んだブドウと交雑した品種を用いていました。と言うのも純粋なヨーロッパブドウは植えても次々と枯死し、入植者たちは長い間その原因――フィロキセラとアメリカブドウの共生関係――に気付かず、「風土病のせいで、ヨーロッパブドウはアメリカでは育たない」と言うのが彼らの常識になっていたそうです。
 しかし19世紀後半、1850年代にイギリスの植物学者が研究のためアメリカブドウの標本をグレートブリテン島に持ち込んだことから、大災厄の幕が上がります。

アメリカブドウとフィロキセラの拡散

 オセアニア編でも少し触れましたが、19世紀後半には世界的にワイン生産が盛んになり、品種改良のためアメリカブドウはあちこちのワイン産地へ持ち込まれました。そしてアメリカブドウと共生していたフィロキセラも持ち込まれた地で大繁殖し、その地のブドウを次々と枯らしていきました。ヨーロッパはもちろん、アジア編でも触れたようにインドや中国、そして日本でも。
 1850年代、アメリカブドウが持ち込まれたイギリスのグレートブリテン島もフィロキセラで汚染されました。当時から検疫の概念はありましたが、それはヨーロッパ人の命に関わるペストに対するものだけであり、大航海時代にヨーロッパから南米やオセアニアに持ち込まれ「耐性のない現地人のみ絶滅させた疫病」や、ブドウに寄生したフィロキセラのような「植物のみ汚染する疫病」と言ったものに対しては未だ無頓着だったのです。また、19世紀に蒸気船が発明されたことで、それ以前の帆船より移動スピードが格段に上がったことも、フィロキセラが「生きている間」にアメリカからヨーロッパへ移動できた要因と考えられています。
 緯度が高く冷涼なグレートブリテン島では、地球全体が冷涼だった14世紀から19世紀半ば頃の「小氷期」にブドウはほぼ育たず、ブドウ栽培の北限地はグレートブリテン島より南となるフランスのブルゴーニュ地方と言われていましたが、比較的温暖なグレートブリテン島南部ではそれ以前の古代ローマ時代からブドウ栽培が行われており、1534年にイングランド国教会が設立されるまでワインも盛んに醸造されていたそうです。ローマ教皇庁から分離しワインを宗教的に必要としなくなったことで、イギリスではブドウ栽培が途絶え、ブドウ栽培の北限地はフランスのブルゴーニュ地方に「なってしまった」ようです。ただ、イギリスでは以後も盛んにワインが飲まれていたそうなので、イギリスでブドウ栽培が途絶えたのは宗教ではなく、ワインの品質の問題だったかも知れませんね。しかし前述通り、1850年代にアメリカブドウと共にフィロキセラが侵入したことで、僅かに存在したイギリスのブドウ畑も壊滅状態に陥ります。

 そして1863年。フランスのガール県プジョー村で原因不明の大規模なブドウの枯死が報告されました。当地のワイン商ジョセフ=アントワーヌ・ボルティが、ニューヨークからアメリカブドウの「ヴィティス・ラブルスカ」種の苗を1ケース購入し、所有していたブドウ畑に植えたことが始まりとされています。この枯死は瞬く間にフランス中に広がり、「正体不明の疫病が原因」とされました。
 このときの被害については諸説ありますが、当時のヨーロッパのブドウ畑の約3分の2が壊滅したとも、被害面積は総計700万haを超えたとも、被害面積はフランス国内だけでも250万haに及んだとも、被害以前は8400万リットルあったフランスのワイン生産量が1875年には約2300万リットルになったとも、ボルドーでは当時17万haあったブドウ畑のうち、10万haが被害を受けたとも言われています。
 この「疫病」の原因調査は1868年に始まり、同年にフランスのモンペリエで枯れかけたブドウの根から「シラミ」が発見されました。翌1869年には、この「シラミ」がイギリスのブドウの葉に寄生した虫と同種である可能性が、また既にアメリカで1855年に発見されていたブドウの葉に寄生する「ブドウ樹シラミ」と同種である可能性が指摘されます。しかし「葉」に寄生するシラミと「根」に寄生するシラミが本当に同一種かには議論の余地があり、研究の結果、1870年には同一種と結論付けられました。また同年、この「シラミ」の生態観察により、「葉」に寄生するシラミが「根」で越冬することも確認されました。
 この「シラミ」はオークの葉に寄生する「フィロキセラ・クエルクス」と類似性があることから「フィロキセラ・ヴァスタリックス」と名付けられました。後年、学名は改められ「Daktulosphaira vitifoliae」となりましたが、この旧学名に基づいてブドウネアブラムシは現在でも「フィロキセラ」と呼ばれています。

 しかしフランスのワイン生産者たちは、フィロキセラが「疫病」の原因であるとは簡単には信じませんでした。感染の拡大が早すぎたため、何某かの他の原因が存在し、弱ったブドウの木にフィロキセラが寄生したと考えたのです。
 彼らは薬剤をブドウの根に注入したり、ヒキガエルや家禽をブドウ畑に放ってフィロキセラを食べてくれることを期待したりしましたが、いずれも失敗しました。それでもフランスのワイン生産者たちは、伝統的な病原駆除法にこだわって、被害を食い止めることができずにいました。
 あるいは、この「疫病」以前に流行った「うどんこ病」対策の成功体験があったせいかも知れません。

 少し時系列は戻りますが、1845年、イングランドのケント州でうどんこ病が発見されます。葉っぱに白い粉が吹いたようなカビが生える病気で、ブドウだけでなくコムギやオオムギ、モモやイチゴなどにも見られる病気です。このうどんこ病により、当時のフランスはワイン生産量の60%以上を失ったとか。しかし原因菌であるウドンコカビは、比較的安価な硫黄粉剤に弱いことが早期に判明したため、うどんこ病の被害は1858年頃には終息したそうです。
 しかしうどんこ病によりワインの供給量が減少し、それを補うため海外から苗木を輸入したことが、ヨーロッパにフィロキセラを呼び寄せる原因になったともされています。

 フィロキセラを発見した研究者たちはその後、フィロキセラの生態を研究し、1874年には研究を完了させています。

 しかし生態は分かっても、肝心のブドウの枯死を防ぐ方法は見つからず、1874年にドイツのボン近郊でフィロキセラが発見されたことを皮切りに、ドイツもフィロキセラに汚染されます。アメリカから輸入された装飾用ブドウ樹よりフィロキセラが侵入したそうです。1885年にはドレスデンでも確認され、ブドウ畑は5万haまで激減したと言います(2023年現在の作付面積は10万ha程だそうです)。ただドイツではフィロキセラの拡大ペースがフランスより遅く、対策として多くのブドウ畑が焼かれたとか。
 他にも1866年に南アフリカ、1870年にオーストリア、1880年にルーマニア、1883年にイタリアと言った主要なブドウ畑へフィロキセラは広がり、日本でも1882年にフィロキセラが確認されました。2023年現在もフィロキセラに汚染されなかったのは、オーストラリア西部や南米など、ごく僅かな地域だけだそうです。
 こうして生活の糧を失ったヨーロッパのワイン農家は、他の農作物に鞍替えしたり、新たなブドウへ植え替えたり、フィロキセラのない国へ移住したりしたそうです。

ブドウ畑の再生へ

 フランス政府は1873年6月、ブドウの木を救う有効な治療法に対して30万フランの賞金を出すと発表します。これを受けていくつかの解決策が考案されました。
 ブドウ畑を40日以上浸水させ、フィロキセラの絶滅を図る策。効果はあったようですが、当然ながら、この対策を打てるブドウ畑はごく限られていました。
 ブドウ畑の土壌に、二硫化炭素を注入する策。二硫化炭素は殺虫剤や溶剤として使われる劇薬で、これも効果はありましたが、揮発性と可燃性が高く人間にもブドウにも危険、かつ非常に高価だったため、全てのブドウ畑で行うには非現実的でした。
 フィロキセラに弱いヨーロッパブドウを諦め、フィロキセラ耐性を持つアメリカブドウを育てる策。これはブドウの品質が、引いてはワインの品質が変わるため、多くのワイン農家から反発されました。当時のアメリカブドウでワイン向きの品種はまだ開発されていなかったのです。また試験的に植えられたアメリカブドウはフランスの土壌と相性が悪く、弱ったところをフィロキセラに寄生され枯れてしまったとか。
 しかしフランスの土壌でも生育する種のアメリカブドウの発見と、アメリカで研究開発されたフィロキセラ耐性を持つ交雑種のブドウを用いて、アメリカブドウの根を台木にヨーロッパブドウを接ぎ木する方法が考案されました。1871年頃のことだそうです。ブドウの根に寄生したフィロキセラは除去が難しいので、元々フィロキセラ耐性を持つアメリカブドウの根に、ヨーロッパブドウを接げばいいんじゃない?と言う訳です。
 肝心のワイン農家は接ぎ木賛成派と自根のブドウにこだわる反対派に分かれました。当時アメリカブドウは低俗、ヨーロッパブドウは高貴と考えられており、植え替えや接ぎ木は「高貴なヨーロッパ種のブドウを汚すもの」と見做されたのです。こうした考えの許、フランスのブルゴーニュでは1887年まで接ぎ木を公式に禁止していたとか。しかし最終的にほとんどのブドウが接ぎ木となることで、ヨーロッパのフィロキセラ禍は終息を迎えました。
 しかしフィロキセラの被害はフランスの経済に大打撃を与え、また多くのブドウ品種を絶滅に追い込みました。

 ちなみに、接ぎ木法考案者の一人であるフランスのワイン生産者レオ・ラリマンは、フランス政府へ賞金を請求したそうですが、政府から「お前が考案したのは“治療法”ではない」と言う理由で支払いを拒否されたそうです。また彼こそフィロキセラをフランスに持ち込んだ張本人と疑う者も多かったとか。

 一方、運よくフィロキセラの被害を免れた自根のブドウは「プレ・フィロキセラ」と呼ばれ、珍重されるようになりました。
 代表的なプレ・フィロキセラはスペインのセゴビア県やイタリアのシチリア島、アメリカ合衆国のワシントン州、ギリシアのサントリーニ島、オーストラリアの南オーストラリア州などに残っており、いずれも水捌けのよい砂地(サントリーニ島とシチリア島は火山島ですね)と言う共通点があります。このため、砂地ではフィロキセラが繁殖できないと言われていましたが、21世紀に入りこうした砂地のブドウ畑でもフィロキセラが見つかり始めているそうです。と言うのもフィロキセラは生命サイクルが八日から十日と非常に早く、遺伝子の変異が進みやすく、環境に適応しやすいためと言われています。
 チリやアルゼンチンなど南米のブドウ畑も、地形や気候によって病害や虫害を受けにくく、プレ・フィロキセラが多く残る地域です。ヨーロッパでは絶滅したブドウ品種も残っているとか。その味わいは現代のヨーロッパ産ワインに比べて重厚だとも言われています。
 またヨーロッパにも前述のセゴビア県やシチリア島の他に、フランスやイタリアの汚染された地域でもピンポイントでフィロキセラ禍を免れプレ・フィロキセラが残っているブドウ畑もあります。それらの畑はワイナリー単位の話になるので、ここでは省略したいと思います。

フィロキセラ禍後のワイン世界

 フィロキセラ禍が終息した後も、その影響は残り続けました。

 フィロキセラによりブドウが枯れ、植え替えても、すぐにブドウが収穫できる訳ではありません。ブドウの木が成長するまでの間、ワインは原料不足に陥り、ワインの価格が高騰する一方で、ブドウの搾りかすなどを使った低品質なワインや、ワインの風味を付けただけの安いアルコール飲料が出回るようになります。それらの「ワインもどき」は、ブドウの生産量が戻った後も出回り続けたため、今度はワインの過剰供給による価格の大暴落が起きてしまいます。
 そこで「ワインもどき」を駆逐するため、政府やワイン農家たちはワイン産地を限定したり、品質基準を定めたり、補助金を出すなどして、各産地のワインブランドを守る方向に動きました。フランスでは1907年から法案が段階的に制定・改訂され、1935年にフランス農林省管轄のAOC認定・運用組織INAOが設立されました。かつて日本で販売されていたシャンパン風炭酸飲料が「シャンメリー」に改名したのも、その影響です。またイタリアでも同様の制度であるDOPが運用されています。
 こうして世界各地のワインはブランド化していき、今日のワインの隆盛を形成していきました。

ヨーロッパデッキを振り返る

 フィロキセラの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季のヨーロッパデッキの中身を確認してみましょう。

  1. 政府の補助金

  2. フィロキセラの蔓延

  3. ワイン産地の限定

  4. 原産地呼称制度

  5. 厳しい規制

  6. ワイン要件の明確化

  7. 貧弱なブドウの出来

  8. 天井知らずのワイン価格

 フレイバーのタイトルを見ると、順番が前後していますが、フィロキセラ禍とその後の影響が列挙されています。
 フィロキセラ禍の影響については、「フィロキセラの蔓延」「貧弱なブドウの出来」「天井知らずのワイン価格」で触れられています。
 残る「政府の補助金」「ワイン産地の限定」「原産地呼称制度」「厳しい規制」「ワイン要件の明確化」は、その後の産地規制について書かれています。

 こうして見ると、フィロキセラが引き起こしたワイン産業の混乱と、その後の世界の変遷がよく分かります。
 「ワイナリーの四季」と言うゲームは幸いにも?フィロキセラと無縁でしたが、こうして「ザ・ワールド」でその歴史を知ると、また違った視点でワイン醸造について考えされられるのではないでしょうか。


寄付のお願い

 本記事は全文無料で読めますが、もし記事を気に入ってくださったなら、以下からサポートをお願いします。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?