ボードゲーマーに贈る「Tang Garden」の歴史的背景


ボードゲーム「Tang Garden」とは

 西Thundergryphより発売されているボードゲーム「Tang Garden」は、中世の中国で庭園をデザインし勝利点を稼ぐタイル配置ゲームです。

 2025年2月現在、日本語版は発売されていませんが、CMON JAPANさんから基本セットを通販することが出来ます。

 拡張セットもいくつか発売されていますが、私はKickstarterで2022年2月~3月に行われたBigBox版クラファンのおかげで2024年末にフルセット入手できました。英語ダメダメのくせにな!
 このゲームの良いところは、庭園に置ける樹木や東屋などの装飾品が厚紙で作った立体オブジェクトなので、ボード上に置くと遠景タイルも相まって映える! 興味のある方は画像検索でググってみてください。

 タイトルの「Tang」と言うのは中世中国の国家「唐」のことで、すなわち舞台となるのは唐の時代。第2代皇帝・太宗の時代を舞台とする西遊記や、その西遊記のモチーフとなった玄奘、中国史上唯一の女帝である武則天(則天武后)、日本から遣唐使でやってきた阿倍仲麻呂、詩仙・李白、詩聖・杜甫、同じく詩人の白居易(白楽天)、第9代玄宗の寵姫・楊貴妃などが有名な時代ですね。
 そしてモチーフになった中華庭園については調べてもよく分からなかったのですが、CMON JAPANさんの通販ページによると「華清宮」と言う、唐代の首都であった長安(現在の西安)の郊外にかつて存在した離宮だそうです。

 この華清宮は、前述の詩人・白居易が玄宗と楊貴妃の愛を詠んだ詩『長恨歌』で知られているそうです。しかし楊貴妃の一族と安禄山の一派が対立して起きた「安史の乱」が原因で離宮は荒廃し、現在では離宮の中にあった池(温泉)が「華清池」として観光地になっているとか。
 かつての華やかなりし盛唐の時代に作られ、唐の衰退と共に荒廃していった華清宮。盛者必衰とは日本文学の平家物語で誰しも習った言葉だと思いますが、華清宮の歴史にもそうした盛者必衰の理を感じてしまいます。

 と言う訳で、今回は華清宮と共にあった唐の全盛期について見ていこうと思います。

概略・華清宮が出来るまで

 そもそも華清宮のあった西安は、付近で新石器時代の遺跡が発見されており、古代から人々の集まる場所であったことが分かっています。比較的内陸部に位置する都市ですが、黄河の支流である灃河に程近く、現在では「華清池」と呼ばれている温泉が古くから在ったことも大きかったのでしょう。
 その西安が首都機能を持つようになったのは西周の時代。前王朝であるいんの頃から領主の住む州都だったそうですが、殷周革命で殷を滅ぼした周の武王が灃河を挟んだ州都の対岸側に遷都して「鎬京こうけい」と名付け拡充したのが始まりと言います。
 紀元前1045年頃の話だそうで、3000年余り前と凄く遠い昔の話ですが、殷周革命が『封神演義』の舞台となった時代、と言うとなんだか急に身近に思えてきますね。殷を滅ぼし周を建てた武王は姫昌の息子で本名は姫発、『封神演義』で言うなら妲己に肉餅ハンバーグにされたことで知られる伯邑考の弟です。
 西周の滅亡後は西安郊外の櫟陽れきようや西に隣接する咸陽かんようなどに遷都しつつも、西安の周辺地域は首都圏であり続けました。

 紀元前221年に中国全土を統一した秦の始皇帝は、首都・咸陽の東、西安から東に25kmの位置にある驪山りざんの麓に「驪山湯」なる館を建てたそうで、その後、唐の第2代太宗が644年に同地に「温泉宮」を作らせました。温泉宮は、747年に第9代玄宗が規模を拡大させ、名称も「華清宮」に改めたそうです。
 なお驪山は火山ではなく、付近に断層があり、マグマが比較的地表に近いところまで上がっているため温泉が湧くのだそうです。

 「Tang Garden」は「唐の黄金時代に華清宮を造営」するゲームですが、ルールブックのイントロダクションをDeepLで翻訳したところ、唐の玄宗と楊貴妃について触れられていたので、どうやら747年に玄宗が温泉宮の拡張工事を行なった辺りの時期がモチーフになっている様子です。

隋から唐へ

 「Tang Garden」のモチーフとなった唐の黄金期を語る前に、まずは唐の成立について。

 唐の前王朝である隋では、中国史上最悪の暴君として知られる第2代煬帝ようだいの失政により、各地で反乱が発生します。その中で抜きんでたのが、太源を預かっていた留守官(統治者代行)の李淵でした。政府高官ですら反乱を起こしたのですから、煬帝がどれだけ臣民の反感を買ってたのかがうかがい知れますね……
 各地の反乱を鎮圧していた煬帝ですが、反乱を抑えきれずに首都を捨てて南方へ逃亡、その隙に李淵が首都を陥落し唐を建てます。これに悲観した煬帝は酒色にふけるようになった挙句、部下にクーデターを起こされて死去。その部下も他国との戦に負けて斬首され、その国も李淵の次男・李世民によって滅亡したそうです。
 高祖(李淵)が唐を建てた頃は反乱により他にも小国が乱立していましたが、李世民の活躍によって小国は滅亡し中国は約300年ぶりに唐に統一されます。この戦功で世論の支持を得た李世民は、更に兄で皇太子の李建成を暗殺し、皇位を継ぎました。中国稀代の名君とされる第2代太宗です。

 太宗は優れた軍人で、前述のように隋末期に乱立した小国を平定しただけでなく、中国とロシアの間で当時勢力を誇った遊牧民族国家・突厥とっけつ(テュルク)の東半分を勢力下に置くことに成功し、彼らから全族長を総括する「可汗」の更に上位と言う意味を込めた「天可汗」の地位を与えられたそうです。以降、唐の皇帝は北方遊牧民族の首長を兼ねるようになり、唐代の皇帝の命令書には全て“皇帝天可汗”の署名があるのだとか。
 また太宗は軍人としてだけでなく政治家としても有能で、中国では秦の時代から皇帝に諫言かんげんする専門職「諫官」が置かれていましたが、周囲の諫言に対し太宗は常に誠実に答え、改めるべき点は改め、最善の君主であろうとしたと言います。中国史において諫言に怒り左遷や処刑を行なう皇帝がほとんどの中、太宗は諫言を真摯に受け入れた希少な皇帝でした。自身の言動を否定されるのは自身が悪いと分かっていても不快なのに、相手の生死を握る権力を持ちながら諫言を受け入れた太宗は凄いですね。これは名君の予感。中でも様々な主君に諫言し、しかしその諫言が入れられず主君を幾度も失ってきた魏徴を重用し、そのやり取りは言行録『貞観政要』にまとめられています。
 ちなみに『貞観政要』が編纂されたのは太宗の死後40~50年経った頃で、元は著者で歴史家の呉兢ごきょうが、太宗の孫である中宗に政道の手本にしてほしいと上進したものだそうです。後に汎用性を高めた形に再編され、帝王学の指南書として中国はもちろん、日本を含む周辺国にも伝わり、徳川家康や明治天皇も帝王学を学んだ名著として、現代でも高く評価されています。
 また当時のもう一人の著名人、「西遊記の三蔵法師」で知られる仏僧・玄奘が、当時の中国に伝わっていなかった数々の経典をインドから持ち帰ります。玄奘はインドへの出立に際し密出国していましたが、太宗はこの罪を問わず、経典の翻訳を支援した一方で、玄奘に旅程で得た諸々の情報を報告するよう命じました。そこには突厥を支配下に置き北方を安泰にした太宗が、政治的に西域の情報を欲していた思惑があったとも言われています。こうして玄奘が書いた報告書が『大唐西域記』であり、西遊記の直接的な元ネタとなった記録です。
 太宗の治世で唐は国家基盤を固めましたが、中国統一から間もない時期にもかかわらず「太平の世が訪れた」と記録されており、その内容も「1年間の死刑者数が29人」だの「盗賊がいなくなったので誰も戸締りをしなくなった」だの「道中で食糧が手に入るため数千里の旅程でも旅人は食糧を持ち歩かなかった」だの、中世の文化レベルでは考えづらいものが多く、現代では当時の記録はかなり盛ってると見られています。それでも太宗が中国を統一し、唐の国家基盤を固め、善政を布き「貞観の治」と讃えられる時代を築いた名君であることは間違いありません。

 しかし太宗は後継者争いを上手く収めることが出来ず、結果として皇后の産んだ長男と四男(皇后の次男)は廃嫡、皇后の兄の推薦により九男(皇后の三男)を皇太子にしました。もっとも皇后の兄は、甥を傀儡かいらいに政治の実権を握る目論見がありましたが。

中国史上唯一の女帝

 太宗が晩年重病となり、皇太子となった九男(皇后の三男)李治が看病に訪れた際、太宗の若き側室に一目惚れし、太宗の没後に側室に迎えました。彼女の名は武照。後の武則天(則天武后)です。
 太宗を継いで即位した九男(皇后の三男)高宗は病弱で、異母兄(太宗の側室の子)を擁立する動きがありましたが、伯父はこれを潰し、目論見通りに政治の実権を握ることに成功しました。この頃は名臣と名高い太宗の遺臣が権勢を誇っていたこともあり、比較的平穏な時代でした。
 しかし高宗は武照を新たに側室に迎えると、既に入宮していた皇后と側室を疎むようになり、産まれたばかりの武照の娘を殺した罪で両者を投獄します。なお、この事件は武照が皇后と側室を廃するため自ら殺したと言う冤罪説もあるそうです。
 反対はあったものの、罪人となった前皇后に代わって武照が皇后となり、武照が太宗の側室であった点については「すぐ皇太子に下賜された」と言い訳して批判を避けたそうです。だって夫が死んだ直後にその息子の妻になるとか、完全に当時の貞操観念に反することをやってますからね。
 ちなみに武照は皇后となった直後に、罪人となった前皇后と前側室を惨殺したそうで、彼女らの親族も連座させるだけでなく、侮蔑の意味合いを込めた名前に改名させたとか。なんだか嫌な予感がしますね。

 しかし武則天(則天武后)は皇后になったとは言え身分の低い出自だったため、宮廷での立場は不利でした。そこで自身と同様に身分が低いながらも才能が有り、また自身に強い忠誠心を持つ人材を抜擢し、政治基盤を固めました。彼女自身、身分は低いながらも裕福で高い教育を受けており、この頃に登用された人物は安定した治世を築いたと言います。一方で武則天(則天武后)は自身の身内を重用し、密告により自身を脅かす者を次々に宮廷から排除しました。自身に逆らう者であれば身内でも容赦せず、自身の産んだ息子すら、自身の気に食わないこと(それ自体は人道的な行為)をしたと言う理由で殺してしまうほどでした。
 そうなると面白くないのは、既に権力を握っていた高宗の伯父。両者は対立し、結果として高宗の伯父は左遷され、武則天(則天武后)の天下となりました。
 ですが夫の高宗も、彼女のやり方には目に余るものがあったのでしょう。彼女の廃后を計画しますが失敗し、晩年の病気の治療も武則天(則天武后)に中止させられたそうです。そして高宗が崩御すると、武則天(則天武后)も一度は息子二人を相次いで皇帝にしますが、女帝出現を預言した偽書を世間にバラまき、世論を高めた上で自ら帝位に就きました。

 武則天(則天武后)の治世は概ね安寧でしたが、彼女は暴君的な側面も持っていました。自身の地位を脅かす者、例えば高祖の直系の子孫たちを数多く殺し、自身の一族や息子の側室や娘の夫、果ては実の孫まで、気に入らなければ殺し、または自殺に追い込みました。
 また既に在る伝統的なものを変更することも非常に好み、「唐」の国号を「周」に改めたことを始め、洛陽を「神都」に、皇帝と皇后を「天皇」と「天后」に呼び変えたり、在位中の元号を長くても3年ほどで、短ければ1年経たずに変更したりしました。
 則天文字と呼ばれる新しい漢字もいくつか作っており、現代のUnicodeでもそれらが用意されています。頑張りましたねUnicode。特に日本で知られている則天文字は、徳川光圀の「圀」でしょう。漢数字の「〇」も、元々は則天文字の「星」なのだとか。

 しかし武則天(則天武后)が亡くなると、彼女の変えたものの多くは元に戻りました。国号の「周」は「唐」に戻り、則天文字もほとんど使われずに廃れ、地名も元に戻ります。
 しかし元に戻らないものもありました。死人はもちろんですが、諡号しごう、すなわち皇帝の死後の呼び名です。それ以前の中国の皇帝の諡号は、秦の始皇帝、前漢の高帝、後漢の光武帝や献帝、西晋の武帝、隋の煬帝などと言ったように、1字あるいは2字で○○帝と付けていました。しかし武則天(則天武后)が高宗と共に、太宗の諡号「文帝」を「文武聖皇帝」に改めたことが契機となって以降、歴代皇帝には長い諡号が付けられるようになります。ちなみに高宗の孫・玄宗が太宗の諡号を「文武大聖大広孝皇帝」と更に長く改め、あまりの長さのため諡号では呼びにくくなりました。かと言って諡号を省略するのはスゴイ・シツレイです。そこで亡くなった皇帝を祀る廟の名前を取って「太宗」と呼ぶようになり、現代までその呼び名が続くようになります。

比翼連理:玄宗と楊貴妃

 武則天(則天武后)の死後、一度は廃位された息子(高宗の七男/武后の三男)が再度即位しますが、武則天(則天武后)に倣って権力を握ろうとした皇后と娘によって毒殺され、皇后と娘の一派は夫の弟(高宗の八男/武后の四男)と彼の息子、武則天(則天武后)の娘の協力によって廃されました。この父子こそが第5/8代睿宗と第9代玄宗です。しかし父子と武則天(則天武后)の娘の間でも権力争いが起き、武則天(則天武后)の娘が殺されたことでようやく混乱は収まりました。

 玄宗の時代、かつて武則天(則天武后)が登用した有能な人材が彼の政権を支え、「開元の治」と讃えられる太平の世を築き、後世に「盛唐」と呼ばれた唐の黄金期を迎えました。詩仙・李白や詩聖・杜甫、同じく詩人の孟浩然、王維と言った現代でも知られる漢詩の著名人が輩出された時期でもあります。
 しかし安定した太平の世が長く続いたこと、また寵姫と死別したことで玄宗は倦むようになり、その頃に宦官の高力士により息子の妃であった楊玉環に引き合わされます。後の楊貴妃です。彼女を側室に迎えるべく玄宗は、彼女を息子と離婚させたうえで道士にさせ長安の東にあった温泉宮に住まわせました。道士とは道教の修行者で、要するに仏教の出家者のように「俗世との関係を絶つ」意味がありました。形だけでも息子の妻を寝取るのを避けようとした訳です。
 現代でも絶世の美女として知られる楊貴妃は、当時の唐において理想的な容姿を持つ上に利発で音楽や舞踊にも優れていたそうで、現代で言えばマルチタレントや国民的アイドルのような存在だったようです。
 玄宗と楊貴妃の仲は睦まじく、毎年10月から翌春の間は二人で温泉宮に赴いており、また楊貴妃のために玄宗は温泉宮を拡張し「華清宮」に改めたと言います。

 一方で玄宗は政治を疎かにし、補佐官である宰相に政治を任せるようになります。この頃には既に武則天(則天武后)が登用した人材を失っており、当時の宰相はそれなりに有能ではあったものの、政敵を追い落として実権を握り後世に「奸臣」と評される人物でした。
 しかし彼の死後、楊貴妃の又従兄・楊国忠と、権力に近づくべく楊貴妃の養子となっていた西域出身の軍人・安禄山とが権力争いで対立するようになり、遂に安禄山は同郷の部下・史思明や一族、唐に従属していた北方遊牧民族と共に反乱を起こします。いわゆる「安史の乱」です。
 安禄山が当時の唐の兵力の大部分を預かっていたこと、彼自身や反乱軍の幹部たちが非常に戦い慣れていたこと、太平の世に慣れきって軍として弱体化していた唐の中央部などの要因が重なり、副都・洛陽も首都・長安も陥落、玄宗や楊貴妃、楊国忠は逃亡を余儀なくされ、唐西方の蜀州へ向かいます。途中、反乱の原因として近衛兵の恨みを買った楊国忠が殺され、近衛兵の要求によって楊国忠や安禄山を取り立てる原因と見做された楊貴妃も自殺させるしかありませんでした。
 直後に楊貴妃が依頼していたライチが玄宗の元に届けられ、玄宗は非常に悲しんだと言います。安禄山も後に楊貴妃の死を知ると、数日に渡り泣いて過ごしたとも伝わっています。楊国忠とは対立した安禄山ですが、楊貴妃のことは純粋に敬意と思慕の念を抱いていたのでしょう。
 ちなみに長安を占領した直後の反乱軍は、残った唐臣の虐殺や財産の略奪に夢中で、玄宗たちを追撃することはなかったとか。
 こうして時間の猶予を得た玄宗でしたが、悲嘆に暮れるばかりであったため、皇太子(楊貴妃の元夫ではない方)は父と別れて北方へ向かい、当時朔方(モンゴルに近い地域)を守護していた軍人・郭子儀と合流、同時に即位を宣言し反乱軍の討伐に乗り出しました。第10代粛宗です。反乱軍のトップであった安禄山の死もあって、粛宗と郭子儀は洛陽や長安を奪還しましたが、安史の乱そのものは史思明の息子が自殺するまで10年ほど続きました。そのため安史の乱が治まったとき、玄宗も粛宗も既に亡く、粛宗の息子である第11代代宗の時代となっていました。

安史の乱の影響

 安史の乱が唐に与えたダメージは、非常に大きかったと言います。反乱が起きたことで多数の流民が発生し、戦場となった華北の人口と税収が激減。唐を支えていた律令制度が事実上崩壊してしまいます。また唐は反乱軍を内部分裂させるべく、片っ端から河北の周辺地域の軍事権と行政権を与え懐柔しようとしましたが、彼らが唐に臣従することはなく、河北は小規模な独立勢力が乱立していきました。
 かつて粛宗が側近の宦官に勧められて即位したため、皇帝の即位に宦官の意向が反映されるようになり、唐の皇帝は徐々に宦官の傀儡と化していきます。宦官たちは自らの権力を強化すべく軍人たちを礼遇したため、唐の弱体化は進み、首都・長安を一時的ではありますが、チベット系の吐蕃に占領されたほどでした。
 こうして隆盛を誇った唐も斜陽の時代に入り、安史の乱から約150年後に滅亡することになります。

 代宗の時代を代表する詩人・白居易(白楽天)は、代々地方役人の家柄でしたが安史の乱後の政治改革の時期に科挙で抜擢され、仕事の傍ら様々な文化人との交友を深めます。あるとき、白居易(白楽天)が友人の陳鴻、王質夫と長安の南西にある仙遊寺で、玄宗と楊貴妃について雑談に興じていたところ、王質夫から「玄宗と楊貴妃の間に起きた出来事も、才能ある人が作品にしなければ、時と共に忘れられてしまう。白楽天、君の漢詩は素晴らしいから、試しに玄宗と楊貴妃のことをテーマに漢詩を作ってみないか」と勧められ、長編の漢詩を詠むことにしたそうです。そうして出来上がったのが『長恨歌』だそうです。また白居易(白楽天)は、同席していた陳鴻にも小説を書くよう勧めており、陳鴻は玄宗と楊貴妃のことだけでなく、白居易(白楽天)と自身が作品を作ることになった経緯を『長恨歌傳』と言う小説に書き残しました。

華清宮の衰退

 玄宗と楊貴妃が通っていた頃の華清宮は、玄宗専用の温泉や楊貴妃専用の温泉など多くの温泉が掘られ、役人が滞在するため多くの楼閣が建てられ、更に数多の花々や宝石で作られた仙人伝説の島、安禄山が贈った大理石の石像などで飾られ、闘鶏場やポロの競技場(!)と言った娯楽場まで附設されていた豪奢なものだったそうです。
 唐の時代にポロ?と思いましたが、中東ペルシャを起源とするポロは軍事訓練の一環として周辺地域に広まっており、中国では漢代から既にプレイされていたんだそう。へぇーへぇーへぇー(へぇボタン連打)。

 しかし華清宮は安史の乱の後、皇帝の行幸が絶えたこと(安史の乱の原因と見做された楊貴妃に関連する施設だったからでしょうか、後代の唐皇帝が華清宮への行幸を望んでも臣下に諫められた記録があるそうです)で衰退し、代宗の時代の宦官・魚朝恩が代宗の母を弔う菩提寺を建てる際に、「華清宮の観楼」を取り壊して資材に充てたと言います。どの程度の楼閣が取り壊されたかは分かりませんが、華清宮が荒廃する大きな要因になったことは間違いないでしょう。
 また玄宗の時代は仏教信仰が盛んでしたが、第18代武宗が熱心な道士で廃仏政策を取った(会昌の廃仏)ため、華清宮周辺の寺院や、華清宮内にあった仏像や山水画、玄宗や粛宗が揮毫きごうした額も失われたと言います。華清宮を飾る大理石の石像や仙人伝説の島を作っていた宝石も、この頃までに失われたであろうことは想像に難くありません。
 こうして豊かな温泉に反して荒廃しきった華清宮は、唐の滅亡後、後梁、後唐を経て後晋の時代、天福年間(936年~944年)に道士に下賜され「霊泉観」と言う道教寺院になったそうです。

 後晋から後漢、後周を経て北宋の時代になると、世情が落ち着いてきたためか、楊貴妃伝説に絡めて華清宮のかつての栄華と、玄宗の時代に植えられた松柏と建物の基礎しか残っていない当時の廃墟の様子が記録されるようになります。
 古くから温泉地として知られ、そのため交通の便の良い場所に建てられていたため、華清宮の跡地は当時でも比較的簡単に観光に行ける場所だったようです。しかし跡地にあったはずの道教寺院が廃れていた理由は分かりません。首都に比較的近い場所なので、戦乱に巻き込まれるのを恐れた道士たちが放棄したのでしょうか。

華清宮の復興

 北宋から南宋を経て元の至治年間(1321年~1323年)に、元が趙志古と言う道士などの力を借り、官民一体となって華清宮を修復しますが、再び寂れたそうです。修復に至る詳細は分かりませんでしたが、楊貴妃への忌避感が薄まったのでしょうか。

 その後、明代から清代にかけて少しずつ修復され、1900年に義和団の乱を平定すべく欧米各国と日本で構成された八カ国連合軍が北京へ迫ると、清の西太后と彼女の傀儡でもあった第11代光緒帝は西安へ落ち延び、修復され華清宮から改称した「環園」に一時滞在したそうです。
 辛亥革命で清が滅亡し中華民国が樹立した後も何度か修復されましたが、1936年12月、西安事件が発生します。
 西安事件とは、中華民国を統一した中国国民党党首・蔣介石が、部下の張学良や楊虎城に軟禁された事件のことです。当時の中国は国民党と共産党が物理的に主導権争いをしていましたが、そこへ日本が満州進出し中国は混乱を極める状況にありました。蒋介石は「共産党の討伐」を優先していましたが、張学良や楊虎城は「共産党と手を組んで抗日戦争すべき」と考えており、1936年12月、華清宮に滞在中だった蒋介石を捕らえ、西安へ拉致監禁しました。約2週間後、蒋介石は解放されますが、国民党と共産党の話し合いは一向に進展せず、しかし1937年7月に日中戦争が勃発すると蒋介石は態度を一変、半ばなし崩し的に国民党と共産党は第二次国共合作が成立したそうです。
 華清宮にある楼閣「五間庁」には、2025年2月現在でも西安事件の際に割れたガラスや弾痕と言った痕跡が遺されているそうです。

 現在の中華人民共和国が成立すると、大規模な改修工事が行われ、華清宮は1996年に「第四批全国重点文物保護単位」と言う、日本で言えば文化財指定を受けたそうです。中国政府の定める観光地ランクでは最高ランクの「国家AAAAA(5A)級旅游景区」なのだとか。

 時の皇帝・玄宗と世紀の美女・楊貴妃の「比翼の鳥」に例えられたほど仲睦まじいロマンスの舞台、そして中国の現在を作る切っ掛けとなった西安事件の舞台。観光地としての華清宮(華清池)は日本人にも人気があるそうで、安史の乱から宋代までが廃墟と化していたとは思えませんね。
 でもそれらの建物が近現代に再現されたものであり、唐代の建物がそのまま現代まで伝わった訳ではないことには、注意する必要があるかも知れません。華清宮に限らず、中国は割と古い時代のものが破壊されて残ってないイメージが個人的にはあります。実際に歴史的に焚書とか文化大革命とかやってる国ですからね。


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