なぜ、保険コンサルタントをめざすようになったのか【前編】
「あなたは大切な人を守れますか」
これは、私がライフセービングを始めるきっかけとなったキャッチコピーです。この言葉は、今の私を形作る哲学や考え方のベースとなっており、大人になった今でも私の生き方の根底にあります。
そして、それは最愛の家族の闘病に寄り添った頃の私を突き動かす原動力でもありました。
「私がなぜ保険コンサルタントを目指そうと思ったのか…」
今回は、このテーマを掘り下げてお伝えしていこうと思います。前編の今回は、私が大切な人を全力で守ろうとした頃の話です。ぜひお読みいただければと思います。
夫婦は最強のチーム
私は数年前に最愛の妻を病気で亡くしました。
彼女は10万人に約3人程度の発症率であるユーイング肉腫という希少癌にかかり、若くして闘病生活を余儀なくされました。希少癌のため、薬の開発も進んでおらず、詳しい医師もほとんどいない状況でした。
普通ならば絶望してしまうその状況で、彼女は前向きに頑張り、辛い治療に耐え続けました。生まれたばかりの双子の子供と、私との明るい未来を信じて。
だからこそ私も奮闘しました。一人の医師に判断や治療のすべてを任せるのではなく、文献を調べ、情報を集め、たくさんの医師に話を聞き、可能性を広げるためにあらゆる手を尽くしました。
二人だからこそ乗り越えられることがあると信じ、とにかく諦めずに走り続けました。
困難には二人で立ち向かい、喜びは二人で分かち合う。それが夫婦という最強のチームの在り方だと信じて。
守るために奮闘し続けた日々
最愛の妻の癌の発覚
私の妻は天真爛漫を絵に描いたような女性でした。
無邪気で負けず嫌い、友達も多く、努力家で成績も優秀な優等生タイプ。多彩でありながら、少し抜けているところがあり、そのギャップが彼女の愛らしい魅力となっていました。まるで子供のような底抜けの明るさを持つ彼女は、いつも家の中を明るく照らしてくれていました。
そんな彼女の病気が発覚したのは、双子を出産した後のことでした。正確には、妊娠中に癌は進行していたのですが、その時点では気づくことができなかったのです。
妊娠3ヶ月の頃、彼女は転んで足を打撲しました。レントゲンでは骨に異常がないとされ、湿布で様子を見ることに。産婦人科の定期健診のときに念のため足の腫れを相談したところ、心臓血管系の専門医を紹介されました。
今にして思えば、ここが大きな転換ポイントだったと思います。
当時はユーイング肉腫という病気を知らず、腫れも時間が経てばおさまるだろうと考えていました。なので、先生の指示に従うことに何の疑問も持ちませんでした。
医師は専門分野が異なると、他の領域について詳しくないこともあります。例えば、心臓は心臓血管外科、骨や筋肉の病気は整形外科、消化器系は消化器外科・消化器内科、肺は呼吸器外科・呼吸器内科、脳は脳外科といったように、部位ごとに専門が分かれています。
それが間違っているとは思いません。専門性があるのは当然だと思います。ただ、だからこそ、患者側も考え、選択し、判断する必要があると身をもって感じました。そして私たちは、先生に勧められるまま心臓血管外科を受診し「十中八九、内出血ですね」と言われ、安心しました。
しかし、すべてを知った今なら思います。あの時、心臓血管外科ではなく整形外科に行っていれば、早期発見につながり、結果が違っていたかもしれない。もしも「十中八九」と言われず、不安そうに診断されていたなら、他の病院を探したかもしれない、と。
もちろん「たられば」ではありますが、そう考えずにはいられないほど、あの時の決断を悔やんでしまうのも正直な気持ちです。
誰かのために
「実際には希少癌だった」と発覚した後は、毎日が目まぐるしく過ぎていきました。
日々の通院やケア、子どものこと、仕事のこと、そして癌の転移…。私も、家のことを手伝ってくれる妻の両親も、どんどん疲弊していきました。
それでも立ち止まるわけにはいきませんでした。妻の治療が続く中、日々の生活も工夫し、食事を玄米に変え、人参ジュースを毎日作り、健康管理に努めました。
生まれたばかりの子どもに苦労をさせるわけにはいかない。寂しい思いも、辛い思いもさせたくない。だから、自分にできることは精一杯したいと思いました。
転移が見つかるたびに、妻には「大丈夫、大丈夫」と伝えていました。
「日本にいい情報がなければ、アメリカからも情報を仕入れればいい」と本気で考え、どんなに困難が待ち受けていても、とにかくできる限りの手を尽くそうとしていました。
諦めずに動き続けることができたのは、ライフセービングの頃から持っている「誰かのために」という気持ちがあるからかもしれません。そして妻への愛情、「守るんだ」という責任感、それが私を突き動かしていたのだと思います。
納得するということ
希少癌は前例が少なく、経験のない医者も多いです。医者が全国から情報を集めてくれるわけではありません。
そこで私は自分で動きました。ネットで調べ、本屋に出向き、文献を調べ、医師とコンタクトを取り、全国10人もの名医のもとへ相談に行きました。そうして最善の方法を探し求め続けたのです。
足を切除しなければならなくなったときも、最後の最後まで最善の方法を探し続けました。「この先、子どもとの運動会にも参加したいから足を残したい」という妻の願いを叶えるために、放射線治療の名医に相談をしたこともありました。
結果的に足は切除することになりましたが、その決断に至るまでの過程で私も妻も納得することができました。だからこそ、努力して動いてよかったと思えます。
切断前には義足のパラリンピックの選手や義足のお母さんにも会い、なるべく不安をやわらげ、妻と一緒に未来に希望を持てるようにしました。そしてパラリンピックの選手の義足をつくる義肢装具士である臼井二美男さんを訪ね、義足のフィッティングや生活のアドバイスも受けました。
実際に義足で生活している方や義足を作る方が不安に寄り添ってくれたおかげで、妻も私も安心することができました。
そのときに撮った妻との写真は、私の大好きな1枚です。納得し、晴れやかな表情の彼女がそこにいるからです。
パートナーと共に未来を見据えるコンサルタント
私は、どんな困難に直面しても諦めたくはありません。未来を見据えながら、一歩一歩前進していきたいと思っており、実際にそうしてきました。
夫婦は最強のチームであり、一緒に困難に立ち向かうことで喜びも2倍になります。残念ながら、闘病の末に妻は亡くなりましたが、それでも私たちは一つひとつ納得しながら進んでいったと信じています。
私がコンサルタントとして伴走支援を行う際も同じです。クライアントと一緒に未来を見据え、不安を共有しながら、共に解決策を探していく。
それが私が伴走支援をさせていただく中で、大切にしている信念です。