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チンギス=ハンゆかりの地を訪ねたい

昨年、ある人の依頼で『集史』チンギス=ハン紀を訳した。しかし、チンギス=ハンのセリフ部分がどうにも訳しにくい。なぜだろう?
それは、そもそもチンギス=ハンがどんな人か、良く知らないからではないだろうか。
これは!テムジンが生まれ育ち!!その基礎的性格を育んだ場所を!!!訪ねなければなるまい!!!!

……とかなんとか言いつつ、ヘッダの生成画像はテムジンというより、ボドンチャル=ムンカクだな。

コミケに棲息する歴ヲタ、モンゴル史の根本史料を訳す

 昨年、作家の百田尚樹さんにモンゴル史研究の根本史料の一つ『集史』の中で、チンギス=ハンの生涯を詳述した「チンギス=ハン紀」の翻訳を依頼された。ソ連邦科学アカデミー版のロシア語訳からの邦訳なので、重訳ではあるのだが、「モンゴル史研究に必須の根本史料」と言われ続けていたのに、『集史』の邦訳は今までなかったからだ。

 そもそも自分は、騎馬民族マニアとはいっても、モンゴルというよりはテュルクヲタ。夏冬毎に東京ビッグサイトで開催されるコミックマーケットでは、一般書籍にはなりにくい突厥・遊牧ウイグル・古代モンゴル等々、マイナーな時代・国々について、せっせと書いて薄い本にしているだけのただのヲタクに、どうしてこのような仕事が舞い込んだのか。

 それは、2022年に風間書房から出版された『集史』「モンゴル史」部族篇の日本語訳が百田さんの目に留まったからだという。で、『集史』でチンギス=ハンについて書かれた部分を是非読みたいとのことだった。

 「部族篇」も、ロシア語からの重訳になるが、仕事が休みの日に10年以上かけて翻訳し、コミケで長いこと頒布していたものだ。
「読みたい本がなかったら、自分で書け」
という、マイナーな時代が好きな歴ヲタ……いや、すべての分野のヲタクに課された鉄の掟に従い、誰も訳してくれないからと、自分で訳した。薄い本として少しずつ頒布しているうちにまとまった量になり、専門家に監修してもらい、風間書房で出版することになったのだった。

あれ、チンギス=ハンってどういう人だっけ?

 さて、そんなこんなで、「チンギス=ハン紀」を翻訳することになったわけだが、当然のことながら「チンギス=ハン紀」の中には、チンギス=ハンのセリフがたくさん出てくる。英雄も英雄、ほとんど神格化されているような人だから、「お言葉」は先祖代々語り伝えられてきたんだろう。それを後世のペルシャの歴史家・ラシード=アッディーンが書き留めた、と。
 訳していくうちに、ふと思った。これ、チンギスがどういう人かわからなければ、訳せないジャン!

 例えば、「ジョチ=ハン紀」の中に、チンギス=ハンのジョチに対するセリフがあるが、次のどちらに訳した方が適切なのだろうか。
(ジョチはチンギスの長男。これは、ジョチがチンギスの命令に従わず、出頭しなかった時の話)

 A.「わしは奴を処刑する、奴に情けは無用。」
 B.「わしは奴を処刑するぞ、絶対に絶対に情けなんか掛けたりしないんだからねっ!」

 『集史』『元朝秘史』『征武親征録』等、どの史料を見ても、チンギス=ハンはジョチにいいとこのお嬢さんを嫁にもらってやろうとしたり、広大な領土を割り当ててやったりetc.……と、めちゃくちゃかわいがってる印象がある。

 他の箇所を見ても、だいたいチンギス=ハンは家族に甘い。後々のチンギス=ハンの定めたとされるヤサ(法)を見ても、チンギス家の者に対する処罰が甘々だ。

 なので、自分自身ではツンデレなBの方のような気がしているのだが……。

 仲間や臣下に対するセリフも悩ましい。例えば、ボオルチュに対してどういう口調で話していたのだろう?

 ボオルチュとの出会いを、浅野忠信が主演した映画「モンゴル」では、最初から臣下の礼をとっているように描いているが、それは後世のロシアでの「ノコル」のあり方を反映しているのであって、「ノコル」の本来の意味は「家臣」ではなかったはずだ。
(『元朝秘史』の傍訳では「伴當」、邦訳では「僚友」、本来の意味は「補うもの」。)

 そういった訳で、百田さんには自分の解釈を加えず、日本語としては硬いが、原文を壊さないような直訳で納品したのだが……。

資料によってチンギス=ハンの性格はバラバラ

 思い返してみれば、チンギス=ハンがどんな人か突き詰めて考えたことはなかった。そもそも、私はモンゴル・ヲタではないから、モンゴルの歴史は一般常識程度にしか理解していない。

 一方、モンゴル人の書いたモンゴルの歴史書を見ても、チンギス=ハンの描かれ方は、時代時代で微妙に違う気がする。それはおそらく、あまりにも神格化されてしまったが故に、その時代時代の理想や美意識に合わせて、著者・話者が、意識的にか無意識にかはわからないが、微妙にニュアンスを変えているからではないだろうか。

 たとえてみれば、昭和の昔の「仮面ライダーX」(1974年)では、チンギス=ハンをモデルにしていると覚しき怪人・ジンギスカンコンドルが「悪人」扱いだったのに対し、平成のはじめにかかる「仮面ライダーBLACK RX」(1988~89年)の怪人ガイナギスカンが、敵ながら天晴れな「性格イケメン」に描かれているようなもので、書かれた時代の価値観・歴史観の変化に従って、全く正反対の人物にイメージされてしまうことだってあり得る。

 だったら、伝説化していない同時代資料を読めば良いのではないか?というと、そうでもない。

 チンギス=ハンの同時代人が書いたことが確実な史料としては、『元朝秘史』がある。チンギス=ハンの側近くにいた人が書いたのだろうけれど、読んでみると、近いせいでかえってありのままでないような感触があるのだ。『集史』と比較すると、「なぜ、あのことを話さない?」と疑問に思える箇所がいくつかある。

 こうして資料を読めば読むほど、「チンギス=ハンはこういう人」という人物像がかえってとらえにくくなってしまうような気さえしてくる。自分が書く小説・マンガ等創作物なら、「オレの考えたチンギス=ハン」で良いのだろうが、材料として提供するのなら、そういう色の付いていないプレーンなものを提供したかった。

中公新書版が最新版。岩波版は擬古文調なので読みにくいが、ワンクッションおいてあるので、現代語訳にするところでクリエイター自身のチンギス=ハン像を乗せるには良いかもしれない。

テムジンがどんな所で人格形成をしたのか見に行きたい

 いまさらではあるが、真のチンギス=ハンを知らなければ、という歴ヲタの義務感のようなものが湧きあがってきた。

 そうだ、チンギス=ハンがまだ即位しないテムジンだった頃、人格形成がなされた地を見に行ったら何か感じとれるのでは!?

 テムジンがどんな環境で生まれ育ち、どんな経験を重ねてチンギス=ハンになっていったのかを見たい! モンゴルへ行って自分の目で見てみたい!!

 『集史』によれば、テムジンの父・イェスゲイが死んだのが、テムジンが13歳の時(『元朝秘史』では数えで9歳)。チンギス家の系譜を見ていくと、15歳くらいで結婚して子供がいる人はざらなので、当時の13歳は、現代日本の13歳ではない。とはいえ、長男で一家の主として一族を、しかも父の後ろ盾なく、背負って行くには、たいへんな苦労があったに違いない。

 しかも、自然条件が結構厳しかったと思われる。データとしては、日本にいても調べられるが、それは肌感覚で理解するのとは全然違う。

 人が直接食べられる植物が放っておいても生えてくる、手で捕まえられるような魚もウジャウジャいる、常春の国、我が千葉県とは、できあがった人間の気質は異なるに違いない。

 例えば、ゴビのようなところだと、人でも家畜でも食べられる植物はまばらだし、動物の足は速い。狩りだって技量がなければたいへんだ……たぶん。

テムジンの生誕地デリウン・ボルダグはどこにある?

 「チンギス=ハンの墓はどこ?」という話は、モンゴルについて特に詳しい訳ではない人の間でも話題にあがることが多い。それが今もどこかわからないことは有名だが、生誕地の方は、オノン川畔のデリウン・ボルダグという所であると、諸史料にはっきり書かれている。

 しかし、そのデリウン・ボルダグが現在のどこであるのかは、はっきりしない。もちろん、モンゴルには「ここがチンギス=ハンの生誕地・デリウン・ボルダグである」と謳っている観光地はある。「ある」どころか幾つもある。モンゴル国内ばかりでなく、ロシア連邦内のブリヤート=モンゴルにもある。

 デリウン・ボルダグというのは「脾臓の丘」という意味で、わりとありふれた名前なんだそうな。名称の一致ばかりでなく、「我が村こそチンギス=ハンの生誕地」という伝承のあるところが複数あるらしい。英雄の生誕地あるある、である。

 「遊牧民は常に移動しているんだから、遺跡なんてそもそもないだろう」と思われがちだが、各部族・家族が遊牧する領域は決まっており、特に冬の厳しい寒さを乗り越えるための条件がそろっている土地は限られている。そのため、いつも冬を越す冬営地に何らかの遺跡があることは珍しくない。

 にもかかわらず、テムジンの青少年期に彼の家族は少人数であり、遺跡が残るほど物持ちではなかったので、正確な場所はわからなくなっている。

テムジンが戦った古戦場を訪ねたい

 テムジンの人生で転機になった出来事の現場、特に戦いの場所の地形も是非知りたいのだが、正確な場所がわからない。オノン川の中・上流域一帯がテムジン一家の生活圏であったので、その周辺だろうということが想像できるくらいだ。

 ようやく、ケレイドのトオリルが「オン=ハン」と呼ばれることになるきっかけの戦い・オルズ川の戦いの時代になって場所が特定できるようになってくる。オルズ川の戦いの戦場には、金の戦勝記念碑が残っているからだ。これは是非見てみたい。遊牧民同士の戦いは、どんなところで、どんな風に展開したのか?

 それは、テムジンがどのように勢力を広げていったのか、実感として感じ取れる具体的な何かになるかもしれない。

続く?

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