『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』読書会 まとめ(3/4)
3 『パウロ書簡』における人類(人間)の課題(現在を含む)
2で述べてきたギーターの時代の人類の課題は、パウロ書簡の時代(紀元後すぐ)に、変容をとげる。(ギーターの課題は第四文化期への移行の際の課題であるが、パウロ書簡は第四文化期が1/3の過ぎた時点にあり、その課題は第五文化期の現在においても継続している。)
⑴ 【自らの魂を〈キリスト衝動〉によって貫き、魂内においてアーリマン&ルツィファーと闘い、バランスをとること】
自らの覆いや覆いとの関係から解放された(秘儀参入者の)魂の内に、ルツィファー&アーリマンが憑りついていることが確認される。それらの悪は、ギーターの時代にはまだ〈善き神々〉が覆い隠してくれていた。
〈キリスト衝動〉は以前には宇宙から到来し、特にクリシュナの行いにおいて準備された。それはゴルゴタの秘蹟によって人間の魂に投げ込まれた当初から「輝きの弱々しい小さな炎」や「小さな植物」にたとえられるような非力なものでしかなかった。しかし、この力によって人間はツィファー&アーリマンと闘い、魂内のバランスをとるしかない。この力を賦活するためにパウロはパーソナルで激した口調で語った。
その後、人類は前進しながらも深く転落していき、現在その炎の光は外からはまったく見えなくなってしまっている。
以上のような認識に立って、私たちはまず、自らの魂を〈キリスト衝動〉によって貫き、内なる光が魂の外にも輝くように努力する必要がある。
太古、霊は霊的太陽として魂に対して優勢なサットヴァ状態にあって、魂を外から照らしていた。その霊の光が魂の内に投げ入れられた時代(現代を含む)、霊の光を魂実質が覆い、内からの光が見えない暗闇のタマス状態となった。未来においては、魂を内から輝かせ、いわば霊が優位のサットヴァ状態を内からつくりだす必要があるのである。
⑵ 【物質世界も神の創造(神の顕現)であると認識し直すこと。世界を物質と霊の合一として捉えること】
物質世界がマーヤー(幻影、仮象)と見えるのは、(最初の人間アダム以来)人間がルツィファーに屈したからであり、その罪は人間の側にある。それなのに、その物質世界から抜け出そうとすることは、人間の罪を神に負わせようとすることに他ならない。それは、私たちが神の御業を軽蔑し、宇宙霊を冒涜することにもつながる。
私たちは、マーヤーと見える外部の物質世界を神の創造(神の顕現)として、よきものとして認識し直す必要がある。物質をマーヤーとしているものを自らの内で克服するとき、私たちは再び宇宙(世界)と和解する。そして、私たちに向かってこう響いてくる。「この宇宙はエロヒムの創造である。そして創造の最後の日に「そして見よ、すべては極めて良かった」とこのエロヒムは見なした」と。
⑶ 【自らの営みの中に、愛し、信仰し、帰依しつつ神を示すこと】
パウロが東洋の教えに向き合うと、彼の魂の奥深くで次のような言葉が呼び起こされる。
「いかにも、お前は外でお前を取り巻いているすべて、お前がかつて外部で行ったすべてからも抜け出して進化したいと思っている。…(しかし)いかなるところにも神の顕現が、神の霊が生きているのではないか?まずお前自身の営みの中に愛し、信仰し、帰依しつつ神を示そうとはしないのか?それでいて、神の御業であるものに勝ち誇るつもりなのか?」
パウロは、「一人一人の中に生きているが、教区全体においても働き、教区の個々の部分全部を集め結びつけ全体の中で再び生きるキリストの力」を特徴づける。一言でいえば、それが「愛」である。(もちろん「愛」はこの課題に限定されることなくパウロ書簡の示す課題において普遍的である。)
「…愛が欠けていたら、すべては無に等しいでしょう。…すべては無駄でしょう。愛はいつも在り続けます。愛は慈悲深く、愛は妬みを知りません。愛は驕らず、愛は自惚れを知りません。愛はすべてを包み、あらゆる信仰に流れ込みます。…愛があるなら、愛は決して滅びません。…信仰は残り、希望は確実に残り、愛は残ります。けれども…もっとも大きなものは愛です。ですから愛は上に置かれるのです。…」
⑷ 【各人が自らの天分を自覚し、個において自立しつつ他者と協働し、共同体(社会)を構築すること】
パウロは、各人の天分(才能/霊の賜物)が異なる時代の始まりにいた。癒しの天分、助力する天分、統制する天分、預言の天分、異言を解釈する天分など、すべての天分の中には、一つの霊が働いている。彼はコリント人に、「それぞれ別の天分をもつ人が協働すれば、霊的にキリストに浸透されうる一つの全体を生み出す」と言う。
〈キリスト衝動〉とは、「一人の特別の人間の中にはないけれども、どの人の中にも存在しうるもの」である。それは、人類によって意識的に求められる、人類の新たな集合魂のようなものである。一人一人がどれだけ個性的であろうとも、一人一人の魂の中に自らを注ぎ込む指導者、一人一人の魂の中にあると同時にすべての上に浮かぶ存在、それがキリストである。
霊的世界においてクリシュナの弟子たちは同じ衝動を自らの内に燃え上がらせているが、キリスト衝動の人たちは霊的世界においても一人一人が特別の個性を、異なった霊力を備え、その人ごとの仕事に責任を負っている。
誰もがキリスト衝動との関係を得、キリストへの道においてさらなる進展を重ねることができる。一人一人がその成熟の度合いや受肉段階、個々の進化に応じて自らを高めていくことができるのである。
パウロは、このような教区民一人一人が自らの天分において「愛」をもって協働することを求めたのである。