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援助とか扶助とか開発とか
広辞苑を引くとそれぞれこう定義づけられている
援助:困っている人や不足しているものに対して、助けることや力を貸すこと
扶助:経済的・生活的に困っている人を助けること
開発:自然や資源、人材などを活用して、新しい価値や可能性を引き出すこと
これらは似ていて全然違う
大学生になって「他者を助ける」ことの意味を初めて考えた
誰かを助けるということの意味や経験は幼い頃からあったし、それが社会において重視されていることも必要なことなのもわかっていた
私自身、他者のためになることを生み出すことに対しても自ら満たされ幸福を感じる人間なのでそれなりに「他者奉仕」や「支援」には触れて生きてきたと思う
国際協力や途上国開発援助に近しい分野を選択し進学する中で「他者を助けること」に向き合う機会が増えた
様々な勉強をしてみて思う、自身で体験することのエネルギーはすごい、教科書やパワーポイントではあんなに平面的だった言葉や光景があっという間に形になって現れて、脳裏に張り付いて離れない
私がなぜ「他者を助ける」ことを考え直したのか、私が体験した2つのきっかけ
「橋を境に変わる世界」
1つ目は大学1回生の頃に、とある記事を書くために大阪府西成区に拠点を持つNPO法人に取材をさせてもらったことだった
大阪の北部に位置する「あいりん地区」、旧称釜ヶ崎
この地域は失業者や生活保護受給者、安価な簡易宿泊所(ドヤ)の集積、日雇い労働者の割合の多さから様々な社会課題を抱えており、それらが長年の「負のイメージ」に繋がっている
その課題解決のため行政が「西成特区構想」と名付け環境改善や地域活性化に取り組み続けている
現地調査の前から下調べはしていたし、西成自体既にある程度メディアや社会学系の分野で多くの研究者が取り上げていたから前提情報は十分だと張り切って現地に入った
強烈な記憶として残っているのが高架下を挟んだ南北の格差だった
ちょうど私が訪問する3,4年ほど前に高架の南側に星野リゾートが建設された
こういったいくつかの再開発によって高架を挟んで観光地化されたエリアと、依然として社会問題を抱えるエリア(現あいりん地区)がぱっくり分かれる地域の二極化が進んだ
これは本当に歩いていたら「え?」と声が出てしまうほどで、なかなか極端なものだった
観光地向けに開発された通りには高級マンションが並び、一つ高架をまたぐと50円自販機がある、味わったことの無い異様さ
交通アクセスの良さから観光地側の人通りは多く、また関西空港の乗り換えにも使われるためかスーツケースを引く人たちも忙しそうに行き交う
たった数百メートルの距離なのに何か人々から北側が見えていないかのよう
この構図は都市再開発の典型的な一例と言えるがそれでも実際に見たのは初めてでそれゆえに衝撃が大きかった
商店では私の住む地域では考えられない程安い値段で、食品が売られている
物価が違う?
トラックのチラシで求人広告?
現代にそんなシステムが機能するの?
「日本にもこんなところあったんだ」、これが素直な第一印象
活動家の方々に聞いた「ここは最後の受け皿やから」という言葉が印象に残っている
聞いたところによると元々大阪府民の方だけではなく他府県からも居場所を求めてここへやってくる人がいるらしい
歩いていて空き缶を投げられた、
閉鎖的な空間では「外」と「内」の意識が強まりやすい、外部の人間をよく思わない人も多い
行ってみてわかったことがある
言語化が難しいけれど「ここでしか生きられない人」がいる事
綺麗であること、整うことが幸福につながるとは限らないこと
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商店でもジュースが3本100円とかで売られていて
何十年も前にタイムスリップしたみたいな感覚になった
これまでの私は路上にゴミが多ければ拾って捨てるべきだし、治安が悪ければ良くするために警備を強化するべきだと考えていた
何の疑いもなく当たり前に
だけどどうだろう、当事者の彼らはそれを望んでいただろうか
私にはそうは見えなかった
どちらかというと今やっと見つけた居場所を、もしくは長年守ってきた暮らしを、どうか崩さないでほしい、関わらないで、そっと放っておいてほしい
そういう意志を強く感じ取った
考えた
彼らが生活保護を得られた先に職を探そうとしなかった理由、自立した生活に踏み切った数ヶ月後に西成に戻ってくる理由
彼らは果たして私の思う「暮らしやすい生活」を求めているだろうか
私が出した答えはNOだった
援助って、他者を助けることって「誰かが助けてほしい」と求めてそれに応えること
広辞苑にあったように「困る」と当事者が感じたことに対して働きかけること
彼らから発される声に反応して初めて援助という概念が生まれ、援助する意味が生まれる
SOSを聞いていないのに他者が第三者視点で関わることはただのおせっかい
もちろん近隣住民が被る諸々の迷惑や地域全体で抱える「イメージの問題」を含んでいる以上、当事者が助けてと言っていないからでは済まされない
だけどそれでも、どこに「生きやすさ」を感じるかは人によって違う
「生きやすさ」は個人が生きてきた経験や環境が影響して形作られるもの
「困る」は本人にしか見えないもの
私のそれと彼らのそれは、というか私と誰の背景も一致しないと気がついた
助けるという言葉の裏に押し付けがましさを含んでいた自分の感覚に初めて気がついた
私の世界は狭かった
狭かったと自覚して自らの傲慢さを恥じた経験になった
安全=幸せ なのか
二つ目の経験はマレーシアのケダ州で生活したこと
ケダ州はマレーシアの北部、アロースター (Alor Setar)州に位置している
「マレーシアの米倉」と呼ばれ、農業が州の基盤を形成しているような緑豊かな地域
ちなみに私が通った大学はジャングルの中にあった笑
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全体の治安は比較的いいがタイ南部の国境に近いことから一部の地域では(主にタイとの国境近く)密輸や違法取引が報告される
外務省もタイの国境付近に対してはテロへの警戒から危険レベル2,3を交互に出している
他州と比較すると都市化や産業化の進展は緩やかで、経済的に発展している州(セランゴール州やジョホール州など)に比べると所得水準は低い
ケダ州の一部地域では貧困率が全国平均よりも高いと報告されていて「貧困ライン所得(PLI)」(マレーシア政府が使っている基準)を参考にすると、農村部の家庭や特定のコミュニティで貧困の割合が高い
原因としては「マレーシアの米倉」と呼ばれることから分かるように農業に依存した不安定な収入
天候や市場価格に影響を受けやすい異金の稼ぎ方にはリスクがつきもの
都市部のインフラ不足や住宅問題もあり、また基本的な医療が受けられない人々もいる
大学周辺には雨風が凌げるのか疑問な程脆弱な建築で建てられた家やとたん屋根で作られたプレハブ小屋が並んでいた
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右手奥には富裕層向けの住宅街が並ぶ
街の小さなご飯屋さんに行った時に料理を運んでくれたのは8.9歳の男の子だった奥にも子供達がいて、みんなが店を手伝っていた
私と一緒にいた日本人が「学校行ってるのかな、ここに生まれて可愛そう」と言葉を漏らした
私は「え??」と聞き返した
よく見る光景だったが、私には生活している間彼らが不憫にも不幸そうにも可哀想にも1
㎜も見えなかった、だからその考えが頭に浮かんだことがなかった
だから驚いた
彼女の発言にも驚いたのだけれど、自分が「日本で暮らしている人たちよりも幸せそうだ」と感じていたことに気がついて驚いた
それに何より彼女の言葉が、幸福は極めて主観的なものだなと、改めて気づかせてくれた
インフラ設備、失業率、GDP、自殺率の割合、笑顔、収入、
幸福を図ろうとすると色々な基準がある、だけど他者が図るものじゃない
というかあまりに主観的故に他者が図れるものじゃない
せっかくの気づきだからあえて主観的な言い方をすると、子供達の笑顔を見ていたら「他者が幸か不幸か判断することはなんて傲慢なことだろう、なんて貧しい感覚だろう」と思った、そういう経験だった
この二つの経験が私の当たり前をあっという間に崩していった
言語化が難しいけれど「ここでしか生きられない人」がいる事
綺麗であること、整うことが幸福につながるとは限らないこと
他者が幸か不幸か判断することはなんて傲慢でなんて貧しい感覚なんだろうってこと
気づけてよかったとか
気づかなければよかったとか
そういうことでは無くて
「他者を助けること」を平面的に文字で捉えていた私に、
私の世界をまた違った方向に伸ばしてくれたこれらの経験はこれから先きっとずっと忘れないんだと思う
これからも経験と共に、私にとっての「他者を助けること」は変化し続けていくんだろうしそれが楽しみでもある