なぜ不幸なのか
幸せになりたくない人はいないだろう。人類みんなの夢は幸福になる事である。歴史は人間が幸せになるための物語だと言っても過言ではない。特に日本は、差し当たり戦争の心配もなく、衣食住は殆どの人は足りている。しかし、なぜ自殺率は減らないのだろうか、どうして幸福度が低いのだろうか。
不思議だ。摩訶不思議である。かくゆう私も長野のそこそこ裕福なうちに生まれた長男として可愛がられて育ってきた。奨学金の返済に追われる事もなくのびのびと(いやダラダラと?)育ってきた。側から見たらこんな幸福な人間はいない。しかし、実際医者に鬱だと診断されたことがある。この問題は私だけのものではない。同じように側から見たら幸せでも不幸を感じている人はいる。なぜ、こんなことが起こるのだろうか。
男は社会的な成功を求める。誰よりも出世して、稼いで、人から尊敬される人間になろうとする。女は誰よりも美しく、魅力的になりたがり、イケメンな金持ちとの結婚を望む(分かりやすくするための極端な例だとご了承いただきたい)
多かれ少なかれ我々はこんな欲望を抱いている。そして、社会からはみ出された時、自分が美しくないと知った時、絶望のどん底に落とされる。
しかし、考えてみればこんな幸せ追うべきではないのだ。金持ちになるということはどこかの誰かが貧乏にならないといけない。みんな年収一億円だったら一億円の価値はなくなる。みんな浜辺美波(私の趣味です)だったら浜辺美波は可愛いと思わないだろう。
つまり、大多数が負ける試合を我々はしているのだ。我々の多くが追い求める幸福は全ての人が享受できるものではない。そのためそこからこぼれ落ちた大多数が不幸を感じるのだ。
これは資本主義の宿命なのかもしれない。いくら国が豊かになり、物にあふれたからといって大多数が負ける幸福を追い求めるかぎり、それは不幸だろう。
では、どうすればいいのか。勝敗のない幸福を追い求めるのだ。
カレーが食べたいと思った時、今の日本ではどこでもカレーを食べることができる。昔は自分で作るのが当たり前だが今はすき家だろうが松屋だろうが安くすぐに食べることができる。さらに、配達サービスもあるからネットでチョチョイのちょいと注文すれば家にいながらすぐに食べることができる。こんな幸福あるだろうか。
私は仮面ライダーが好きで大人用変身ベルト(通称CSM)を部屋で1人巻き変身するのが楽しくて仕方ない。これも別に誰かも競争しているわけではない。
恋人といる時間が幸せだからいるべきなのだ、1人が楽しいから孤独を感受すべきなのだ。
時代は幸福論の転換期を迎えている。誰もが望む幸福は決して万人に向けられた幸福ではない。それに多くの人が気がつけば、怪しいビジネススクールや脱毛、マッチングアプリの広告がいかに馬鹿げた嘘を言っているのか分かるはずだ。
では、勝敗のない幸福はどうすれば求められるのか。それは人によるとしか言いようがない。ただ、理性でこれは誰の幸福か考えることはできる。まずは理性で理解すること。それが始まりである。
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