![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159025241/rectangle_large_type_2_a918994d78d8f2a971d6a5761fa29cff.png?width=1200)
『ノルウェイの森』をギリシャ神話として読む、という提案
遅ればせながら、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだ。
読もう読もうと思っていたのだが、周りに「読んだけど、あまり面白くなかったよ」と言われていた。その先入観で後回しにしてしまっていた。
実際読んでみると、「面白くない」と言いたい気持ちもちょっと分かる。
だが、私は「仮説」を立てることで、良い読書体験をすることができた。
いや、仮説とも言えない…もう「思い込み」の領域である。
「思い込み」とは、「ノルウェイの森がギリシャ神話である」というものだ。
私はハルキストではない。
詳しい人から見ると、そんなのありふれていると言われるかもしれない。
ただ、「面白くない」という声が複数あったのは事実。
「面白くない」と思っている人に、「ノルウェイの森がギリシャ神話である」説を、提案してみたい。
ネタバレは多少、いやだいぶしてる。
『ノルウェイの森』は、ネタバレがあっても、なお味わえる話だ。
作品の読書感想文だと思って、いつもの優しい心で読んでほしい。
『ノルウェイの森』のあらすじ
まず、ノルウェイの森のあらすじを記しておく。
37歳の語り手「ワタナベ」がビートルズのノルウェイの森を聴いて、高校〜大学時代の過去を回想する物語。
ワタナベは高校時代、親友のキズキを自死で失う。
キズキの彼女である直子と、喪失感を共有しながら、それぞれ別の大学に進学するものの、関係性を深めていく。
だが、直子はキズキを失ったショックから立ち直れず、精神的に病んでしまい、山奥の「阿美寮」で療養することに。
ワタナベは直子に手紙を書いたり、阿美寮を訪ねたりなど、直子への想いを強めていく。
一方、同じ学部の女の子、緑(ミドリ)はワタナベに積極的にアプローチをする。直子への想いはあるものの、緑の勢いに呑まれていってしまう。
(※Amazonアソシエイトプログラムに参加しています。以下全てのリンクについて同様)
ギリシャ神話、「オルフェウスとエウリュディケー」
『ノルウェイの森』の元となった(と、私が勝手に考えている)ギリシャ神話は、「オルフェウスとエウリュディケー」である。
参考文献『変身物語』
「オルフェウスとエウリュディケー」の話は、下記リンクの『変身物語』に詳しく記されている。
『変身物語』とは、古代ローマの詩人オウィディウスが執筆した叙事詩。ギリシャ神話等様々なエピソードが集められた作品である。
天地創造からローマ建国に至るまでの様々な物語を、変身(形態の変化)というテーマで一貫して描いているのが特徴だ。
ちなみに下記の参考文献では「オルペウス」と記されているが、「オルフェウス」表記の方が一般的のため、「オルフェウス」と表記とする。
「オルフェウスとエウリュディケー」のあらすじ
竪琴の名手であるオルフェウスが主人公。
彼は妻エウリュディケーと婚礼を行うが、妻は足首を蛇に噛まれて命を落としてしまう。
悲しみに暮れたオルフェウスは、冥界に降りていき冥王や亡者たちに竪琴を弾き歌いながら妻を取り戻させるように訴えかける。
その歌声に感銘を受けた冥王はエウリュディケーを連れて帰ることを許したが、一つ条件があった。それは、「決して帰る途中で後ろを振り返ってはならない」ということだ。
しかし、オルフェウスはエウリュディケーを連れて帰る際、不安になってつい後ろを振り返る。すると、エウリュディケーは再び冥界に連れ戻される。彼は、二度と冥界に行くことはできなくなってしまった。
運命が味方をしても、自分自身の意思の弱さには抗えない絶望感が神話のテーマとなっている。
『ノルウェイの森』のギリシャ神話性について
『ノルウェイの森』を読んだ時、私は村上春樹氏が「オルフェウスとエウリュディケー」の話を意識していると感じた。
私が思いつくぐらいなので、そのように感じている人は多いだろうが、改めて整理してみる。
「阿美寮」から直子を取り戻す
ワタナベが山奥の「阿美寮」にいる直子に会いにいき、彼女と一緒に暮らしたいと願う想い、それが「ノルウェイの森」の物語を動かしている。
「オルフェウスとエウリュディケー」と重ねると下記の構図が容易に思い浮かぶ。
ワタナベ=オルフェウス
直子=エウリュディケー
阿美寮=冥界
二人の関係は夫婦ではなく恋人とも明確に言えるのかどうか…であるが、とにかくお互いを想い合う二人であることに間違いではない。
カオスな生と、秩序の死
ワタナベのいる現実の世界と直子のいる阿美寮は対比的に描かれている。
「阿美寮」は、精神を病んだ人のための療養施設で、京都駅からバスで1時間の山奥にある。そこに住む人は規則正しい生活を送り、静かで穏やかに食事をして自らの病を緩和している。施設内で野菜を育てて食べるなど、自給自足生活を行っており、施設内で全てが完結。医者と患者の区別も曖昧になっている。
ここに、ワタナベが普段暮らしている大学周りと対比される。
大学では学生運動真っ盛りで、抗議のため授業が中断されたり、機動隊によるストだったりと、とにかく騒がしい。また、女遊びだったりと猥雑な雰囲気もある。一言で言うと、カオス。
秩序の阿美寮と、カオスの現実。
美味しい空気、野菜たっぷりの食事、過ごしやすいと直子に評される阿美寮は皮肉にもどこか生気を感じにくい。まるで「死後の世界なのでは」と感じさせる。
不完全で、うるさくて、猥雑な現実こそが生きていると感じるのと対比的だ。
直子という美しい女
直子は「美しい女」とワタナベに評される。
作品中で、ワタナベが「美しい」と言っているのは、数いる女性の中で、直子だけである。
ちなみに美しいと言われない女性も、魅力的に描かれている。
例えば、女遊びが激しい永沢の彼女、ハツミさんは「はっと人目を引くような美人ではない」が、話していると誰もが彼女に好感を持つタイプの女性だ。後にミッドナイト・ブルーのワンピースを着て現れたハツミさんの描写は、なんとも素敵な光景だ。
次の章で詳しく書くが、「緑」も、美しい女性だとは明確に書かれていないが、実際に緑みたいな子がいたらかなり可愛い、女性の私でも心惹かれると思う。
そんな、「美人ではないけど云々」な女性が多々出てくる。
美人と言うのにもったいをつけているようだ。
その中の直子の「美しい女」評である。
人間の造形の美しさというのは、パーツや配置の正解を表す。
阿美寮と同じく、秩序や理想というものがある。
阿美寮で、未熟だった直子の体が成熟した描写もある。
直子の肉体はいくつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生まれ落ちたのだ、と僕は思った。
また、この時直子は「蝶」のかたちをしたピンで髪を止めている。このピンは何度も出てくることで強調されており、サナギが羽化したことの象徴になっている。
このように、直子は秩序のある阿美寮で完全な存在となる。
完全は、それ以上動かない。ある意味「死」に近いものだと言える。
オルフェウスの喪失を癒す木陰
一方で、同じ学部で出会う緑は生命力の塊で、直子と対になっている。
緑に関してはこんな描写が見られる。
でも今僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽しげに動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。
「春」「小動物」「生命感」「動きまわる」という言葉が続き、いかにも生きるエネルギーに満ち溢れていることが伺える。
また、インドの打楽器奏者のような動きで料理をするなどの生活力もあったり、たびたびワタナベとの性生活を妄想して「やれやれ」と呆れられる場面もあったりと、とにかく生きることに忙しそうである。
名前が「緑」であることも「生命」を象徴するかのようだ。
そう考えると、「直子」の「直」は「秩序」なのかもしれない。
ここで、ギリシャ神話「オルフェウスとエウリュディケー」の話に移りたい。 エウリュディケー亡き後、オルフェウスは丘で弦をかき鳴らす。
だが、神々の血を引く楽人オルペウスがここに坐って、響きのよい弦をかき鳴らすと、たちまち木々が飛来して、陰ができるのだ。
オルペウスは原文ママ
その後、ポプラ、樫の木、柏、菩提樹、ぶな、月桂樹…などさまざまな木々がオルフェウスを慕ってやってくる、美しい描写がある。
木々は女性が変化した姿で、オルフェウスが相当モテることが伺える。
オルフェウスを慕い、癒す木々、それが「緑」であると考察したい。
振り返る描写について
阿美寮から東京に帰るときに、ワタナベは何度も振り返る。
僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がした
振り返っちゃダメだ!と言いたくなるのはさておき、
やはり「少し重力の違う惑星」と描いている通り、阿美寮と現実は全く別の世界であることがわかる。
ワタナベとレイコ、2人合わせて直子のオルフェウス
※この章は、ネタバレしている上に性描写について語っていますので苦手な方は高速スクロールしてください。
ここで、「レイコ」という女性について語りたい。
レイコは脇役系としての登場だったのに、物語が進むにつれどんどん存在感を増してきて、最後は物語に欠かせない人物になる。
オルフェウスは「竪琴弾き」、レイコは「ギター弾き」
オルフェウスは、竪琴の名手だ。
『変身物語』では、冥界でも竪琴を弾きながら吟じると、血のない亡者さえ涙を流したと語られている。魂に響く演奏をすることがわかる。
一方、「ノルウェイの森」にも楽器の名手がいる。
それが、阿美寮で直子の世話をする、「レイコ」である。
レイコは若き頃ピアノの達人だったが、ピアノに関する挫折を何度か経験したことで精神を病み、阿美寮では患者でありつつ音楽も教える。
直子のルームメイトであり、よき相談相手。
阿美寮ではギターを弾き、直子の心を癒すレイコ。
ここで直子がレイコにビートルズの『ノルウェーの森』をリクエストしていることが、後のワタナベの記憶喚起のトリガーとなる。
冥界で竪琴を弾くオルフェウスと、阿美寮でギターを弾くレイコが重なる。
レイコは年齢、性別を超えた存在
レイコは当時のワタナベや直子よりもだいぶ年上だが、年齢を超越した存在として描かれる。
顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。
「しわ」と若さ。相反する二つのものが顔に共存しているようだ。
また、彼女には夫や子どもがいるが、とある出来事から自分にレズビアンの気があることにも気づかされる。
年齢、性別を超越したレイコ。
レイコの「レイ」からは「0」という中立性が見出せる。
この中立性が次に私が言うことにつながる。
レイコとワタナベは2人でオルフェウスになった
「ノルウェイの森は性行為ばかりしている」と揶揄されることがある。
実はよく読んでみると、誰彼構わず、というわけではない。
名前の明かされない相手とは、誰彼構わず…な部分はある。
知り合いとは意外と、ない。
直子とワタナベは寮に入る前1度だけ、結ばれる。
その後、寮を訪ねた折に、色々触れ合ったりするが、最後まで…はない。
一方、緑は、ワタナベとの性生活を妄想するが、実際に行為に及ぶチャンスがあっても及ばない。
意外と慎ましいなと感じてしまう。
でも、レイコとは最後まで結ばれる。
それまでの慎ましさはこれを強調するためだったのか。
好意はお互いあったものの、恋愛感情はなかったはずだ。
実際の生活では、恋愛感情を持たない二人が、一線越えるなんてことは、
よくあることなのかもしれない。
でも、ここは物語の中だ。何かしらの解釈ができるはずである。
私はレイコとワタナベが接続することで、一人のオルフェウスになった、
と考えている。
レイコのオルフェウス要素、ワタナベのオルフェウス要素が合わさったのだ。そのためにレイコをレズビアン…厳密にはバイセクシャルにした。
そうしないと物語が完結しなかったのだ。
エウリュディケーを追いかけるオルフェウス、ワタナベ。
冥界を癒すオルフェウス、レイコ。
2人が合わさって初めて、2人とも前を向くことができたのだ。
「古事記」の「イザナキ、イザナミ」説は?
ちなみに日本神話の『古事記』にも同じようなストーリーの話がある。
こちらの参考文献から要約する。
イザナキ、イザナミを追って黄泉の国に行く
イザナキ(男)とイザナミ(女)、は今の四国や九州、本州を産んだ。その後も次々と自然界に必要なものを産んだが、イザナミは火神の出産で死んだ。
イザナキはイザナミを忘れることができず、黄泉の国(死者の国)まであとを追って行った。だが、イザナミは黄泉の国ですでに食事をしてしまって戻れなくなってしまった。
イザナミは「ちょっと黄泉の神と相談してくるから待ってて」と御殿のうちに姿を消すが、イザナキは待つことができずに御殿を覗いてしまう。
すると…腐乱死体となったイザナミの姿があった。
イザナミの体からは大雷や火の雷など、八種の魔物が生まれていた。
怖くなったイザナキが逃げようとすると、イザナミが「よくも私に恥をかかせましたね!」と責めて魔女に追いかけさせる。
(死んだんじゃないのか?by室井さん)
イザナキは自分にも魔物を生やして抗戦し、なんとか逃げ延びる。
こんな話だ。
『ノルウェイの森』は、ギリシャ?古事記?
ギリシャと日本、どちらも死者の国からから伴侶を取り戻す、という点では一緒だ。見てはいけないところを見に行ってしまう弱さも共通している。
だが、ギリシャ神話の方は喪失に対する悲劇性が強く、美しい話だ。
「古事記」はツッコミどころも多く、ちょっとコミカルなところもある。
ノルウェイの森の雰囲気にはギリシャ神話の方が合っているように思う。
また、ワタナベは度々「演劇史Ⅱ」の授業の話をする。
ギリシャの演劇について、数ある授業の中でも熱心に学んでいるようだ。
入院中の緑のお父さんに会った時もギリシャ演劇の話をするぐらいしつこく「ギリシャの演劇」について語っている。
これは、村上氏がやはり「オルフェウスとエウリュディケー」の話を読者に思いついてほしいのではないだろうか…と邪推してしまうのだ。
終わりに
ここまで、『ノルウェイの森』の神話性について語ってきた。
神話との共通点が多く、いや神話っていうのは私の盛大な勘違いだったとしても、面白く読み込める作品であると思う。
ただ、手放しに「誰でもいつでも、ぜひ読んでください!」とは言えない小説だ。
この記事を書いているときに、Xで、
「小学生の時に『ノルウェイの森』を読んだら気持ち悪すぎて村上春樹ムリになった…」という趣旨のポストが話題となった。
どんな点が気持ち悪いか、小学生女子が読んだなら大体想像がつく。
肉体関係に敏感で、象徴として捉えられない時期は、人生に必ず訪れるものだ。
また、ルッキズムにどっぶり浸かっている時期に読むと落ち込む。
村上春樹は「美人ではないが魅力的な女性」を書くのが上手い作家だ。
だが、ルッキズムにどっぷり浸かっていたら、
「やっぱり完璧な美人の直子の方がいいのか…緑はキープなのか…」と、
読んでいて落ち込んだかもしれない。
私は20代前半の時に、そのことが原因で村上春樹に触れるのが正直怖かった。今考えると、もったいないことをした。
人生の「駅」を何駅か通過してから読むと、その良さがわかる。
倫理面でフィクションの人物を責めるのはある意味簡単だ。
ワタナベは、多数の女子を大事にしていない。
だが、倫理を問うことに、小説を読んだ意味ってあるのだろうか?
倫理も含めた価値観から離れられるのがフィクションの良さだ。
読める時期が来たら、虚心坦懐に読んでみてほしい。
その時に「ギリシャ神話」というテーマが面白さにスパイスを加えることができたなら幸いである。
いいなと思ったら応援しよう!
![亜麻布みゆ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157127867/profile_5516fb6f3c62d68df5255afc9f5f2333.png?width=600&crop=1:1,smart)