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偽りのワルツ

就業支援セミナーの締めは参加者ひとり一人が、一泊を含む計3日過ごしての感想を発表する。
心の準備が出来た人から手を挙げ、手渡されたマイクを通して、自分の思いを会場の人々に伝える。

この「儀式」のすごいところは、参加者全員がその気になるまで待つことだ。語ることのできる「軽度」な人たちからパラパラと手が挙がり始め、短くとも前向きな言葉を発していく。

他者と接することのない日常を過ごす彼らにとって、今回のセミナーは永遠と思われるほどに長い時間だったろう。
ホント言うと僕なんか、結構うんざりしていた。そんな不埒ふらちな思いでいたのは、広い会場内にただ一人だったろうけど。

参加者がその気になるまで、ひたすら待つ。張り詰めた空気は1時間経とうと2時間が過ぎようとそのままに、けっきょく3時間を超えて、最後の一人が語り終えるまで続いた。
トリを務めたのはちょうど僕のななめ後ろ、背中合わせに座る男性だ。終始突っ伏したままで、脇の学生ボランティアが背中を優しくなで続ける。

意を決したかうつむいたままマイクを握り、しゃべりだそうとしてはそのまま固まる。
全身が小刻みに震えているのが、僕の位置からはっきり見て取れる。むかしで言う「対人恐怖症」、今なら社会不安障害(SAD)と呼ばれるが、そのかなり重症の部類に入るかただろう。

長い沈黙が続き、ようやく一つのセンテンスが語られ、すると次の言葉を口にするまで再び数分の時が流れる。その間、うつむいた状態とはいえ場内の視線が自分に集中している気配は、感じ続けているはずだ。
脇で背中をさする学生ボランティアにも、彼の内面の葛藤かっとうが伝わるのだろう、大粒の涙をこぼし始めた。
あちらこちらから、ハンカチに目をやる人たちも現れ始める。誰もがかたずをのんで、次の一言を待ち続けていた。

僕からすると「ここまで追い詰めるのどうなんだろう」と思ってしまうが、10数年の歴史を持つ支援組織からすれば、この一里塚を乗り越えることが大きな一歩になるとの確信があるのだろう。
けっきょく彼は、いくつかのエピソードの断片を長い時間をかけて語り終え、場内から万雷ばんらいの拍手が沸き起こった。「儀式」は無事、終了したのだ。
この「優しさ」に満ちあふれた会場の一体感から、ひとり外れたままの僕だけが困惑していた。

何もこうしたイベント・試みを、真っ向から否定しようというのではない。
かつての「参加者」から今は社会人ボランティアに転じたという人が少なからずおられて、理屈じゃなく、実績を積み上げてきたのがよくわかる。
僕の疎外感そがいかんのようなものは誰のせいでもなく、個人の資質からくるものだ。そしておそらく、誰に気取られることもなく振る舞っている。

今後、同じような形で関われるかはなんとも言えない。「儀式」は信じる者がつどってこそ、神聖な空間となり得る。異教徒が交わっても、ろくなことにならないだろう。

僕は誰かを「助けたい」などと崇高すうこうな使命感が抱けず、社会不安障害の人を間近にしても、「生きていくの大変だなぁ」と思うくらいだ。機会があれば話してみたいと思うが、そこから先の進展など、微塵みじんも想定できない。
それでも一度、こうした生の現場を味わって良かったと思っている。いろいろ考える機会を頂いた。

この参加者発表会の中で、長く抗鬱剤こううつざいを服用されている人の発言があった。30代の男性である。
学校を出て就職した彼は、やはり会社組織の中にいるのが苦手で、いつまで経っても馴染めなかったそうだ。
他人の前でいつも自分じゃない自分を「演じる」事に疲れ果て、気付けばメンタルが壊れていたらしい。

この日も結構しんどかったそうだが、なんとか持ちこたえることができた。このセミナーをかてに、今後の人生を頑張っていきたいという話をされる。

自分を「演じる」という発言にうなずく、周囲の人たち。誰もがわが身に置き換え、思い当たるふしがあるということだろう。そしてそれが「自分じゃない」ために、演じるという行為は完全にネガティブな事象と解釈されていた。

では、「自分」でありさえすれば、人は心を病むことがないのだろうか。語り手は本来の「自分」ではない無理をしたから、ストレスがたまりにたまっておかしくなったと主張する。
そのとき彼の言う、「自分」とは何か。おそらくそれは、「自我」を差しているのだろう。

「自我」とは「わたし」という感覚、行動の主体が自分であるという感覚、他人と区別できる自分と、一般的に定義される。
だとすると、「自我」にそぐわない外的要因によって、彼は抗鬱剤こううつざいを飲み続けていることになる。

そうであれば、居心地の悪い時を過ごしているはずの僕だって、平気な自分を「演じている」ことになる。自分じゃない「自分」をだ。
それはいつものことで、だからって慣れるもんでもないし、精神のダメージは蓄積されていくはずだ。でも、そういう自覚はまるでない。僕の「自我」は、まるで動じないままのようだ。

なんて考えたら、気になりだしてしまった。「自我」ってなんだ。
(次回に続く かな?)

イラスト Atelier hanami@はなのす



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