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凡才の所業
元旦から1年間、毎日noteを続けると決めて今日が11月23日。どうやらゴールが見えてきた。
始めた時から決意というほど強い感情はなかったし、今だって「なにが何でもやり遂げる」なんて気力が、あるわけでもない。
日記など、文字通り三日坊主だった自分が365日(閏年だから366日か)の連続記録を達成したら、それなりの充実感を味わえるかもしれない。
大晦日のゴールを目指すのだとしたら、それはまだ残っているらしい”欲”の残滓であるはずだ。
一定の時間をかけて文字を打ち続けるのだから、自分の中に承認欲求があるのも間違いない。
読んでいただき「いいね」の数が多いと素直にうれしいし、会ったことも話したこともない方からコメントを頂く喜びなど、やってみなければ得られぬ貴重な経験だ。
出来るだけ正直に、かつ自分に向ける視線にも客観性を意識しながらやっている。そのためには僕自身が何者であるか、自分なりの解釈にしろ定義しておいた方がいい。「何者」が大げさなら、立ち位置と言い換えよう。
普段そんなことを考え暮らしているわけではないが、駄文にしろ、ものする以上はその濃淡は別にして、他者と内面を共有したいという願望のようなものだってあるはずだ。
自分はこういうものです、こういう立ち位置から皆さんに発信しています、とでもなれば漠然としたものに一本、軸のような支点が生まれるだろう。
僕にとっても記事を読んでいただく皆様にとっても、分かち合う共通項を見出すことが容易になるだろう。
ところがこれが、よくわからない。
有り体に言えばとくに秀でたものもなく、”凡人”と称するのが適切な自己評価と思える。
ここで厄介なのは、では”凡人”とは何か?を考え始めてしまうところで、辞書をみれば「普通の人。ただの人」と取り付く島もない。
「優れた性質や変わった性質を持たない人」なんていうのもある。
僕に当てはまると思いながらも一方で、あまりにも十把一絡げな人間の捉え方に「そんな簡単なもんでもないだろう」と、軽い反発を覚えるのは否めない。
音楽を聴いていると、「天才!」が山ほどいるのを感じるし、逆に「凡庸」としか表現しようのない演奏もなくはない。
それは個人が直感的に受け止めてしまうものであって、正解・不正解はないだろう。
たとえば西洋音楽で言うと、いまカネを取ってリサイタルを開く演奏家のレベルであれば凡庸などは有り得ず、しかし長い過去から現在に連なる「天才!」との比較において、そう見られてしまうという事なんだろう。
彼らは毎日欠かさず、その他の私事を犠牲にしてでも、何時間にも及ぶトレーニングを重ね本番に臨む。
字義通り命を懸け、修練を積み上げ完成を目指す表現者に、”凡人”のレッテルはいくら何でもと思う。
おそらく”消費者”の立場からなら、払ったものに見合うかどうかの判断は妥当かもしれない。表現する側と真剣に向き合おうとする”鑑賞者”であれば、姿勢は自ずと変わるはずだ。
たとえば明日、付き合いのある地元のバンドが年に1回のライブを開く。僕より2つ3つ年上のオジサン・オバサンたちで、曲の中心は懐メロだ。
バンドのリーダーは毎月「清水いはらマルシェ」にも出演しているし、機会あるごと地元の催しにも、積極的に参加している。
小学校からのクラスメイトで素人の集まりだから、ゼニのとれるレベルじゃ決してない。リーダーのボーカル以外は音をよく外すし、途中で崩れて最初からやり直すなんて言うのもご愛敬の内だ。
ところがこれが、彼らのオリジナル曲になると演奏の巧拙を超えて、味わいがぐんと深まる。『愛郷』『ホームタウン』と、自分たちが生まれ育った郷土愛を綴った歌だ。
それはいかにも凡庸な歌詞でありながら、奏者の想いがこもった瞬間、全てに魂が宿る。総じて曲は素朴そのものであり、評論家の立場からみるなら深みも厚みもないはずだ。
それはきわめて、”凡人”による凡庸な一曲に過ぎない。
ところが音楽の持つ力というものを目の当たりにして、心は間違いなく動かされる。
そこに向けられた表現者の熱い想いやエネルギーの大きさに触れるとき、奏者と聴き手との間に、共鳴するものが生まれるのだ。
それは陳腐な表現ながら、正直な心と心の通い合いといったところかもしれない。
つまり”凡人”を定義しようにも、”凡人”にまつわるはずの事象はポロポロと、乗せたはずの掌から零れ落ちていく。
当てはまるようでありながら大概のものの本質は、凡庸でないのだ。
それにそう捉えることが出来れば、人生にも豊かな色彩が生まれようというものだ。光の当て方を変えれば、ものの見方も悉く変わる。
それを前提としながら、イメージとしての”凡人”を、”凡人”の僕が考察してみようと思う。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす