見出し画像

努力しない才能

天賦の才てんぷのさい」という考え方には、昔から多くの支持者がいる。僕自身がそうで、グールドの事例など、特に音楽関連で顕著にみられる傾向だ。
ところが、これを否定する説の方が現代では主流になりつつあるという。

多くの研究者は今や、天賦の才てんぷのさいが意味するものが何であれ、一般の人が考えているものとはまったく違うものだと主張している。
研究者の中には注意深い表現を用いてはいるものの、才能それ自身の存在を証明する証拠はないと主張している者までいる。

達人を対象とした多くの研究の中には、調査の一環として本人やその両親にインタビューを行い、彼らの輝かしい業績のカギとなる要素を探ろうとするものがあった。こうした研究で被験者になったのは、みな卓越した才能の持ち主ばかりだ。

しかし、何度やっても研究者は、徹底的な訓練を行う前から、早熟の萌芽ほうががあったという証拠はどうしても見いだすことはできなかった。
ごくまれにそのような形跡が表れたこともあったが、ほとんどの場合そうしたことは起こらなかった。

研究者がより多くの例をじっくり研究してみると、少なくとも専門分野で素晴らしい業績を上げるようになった人たちも、そのほとんどは早い時期から才能を示していたわけではないという結果が出た。

同様の発見は、音楽家、テニスプレーヤー、アーティスト、水泳選手、数学者を対象とした研究でも明らかになっている。
これらの調査結果だけで才能が存在しないことの証明にはならないが、異なる可能性を示してはいる。
生まれつきの才能が仮に存在するとしても、それは重要ではないかもしれないという点だ。

ひとたび訓練が始まると、僕たちはその才能がひとりでに現れてくるものと思ってしまう。
たとえば、他の子どもたちがけるまでに6カ月もかかる曲を、ある幼児はたった3回のピアノレッスンで弾いてしまう。ところがこうした早熟の才能は、後年になって偉業を達成する人々に確実に起こっているわけではない。

たとえば、ある傑出したアメリカのピアニストを対象にした研究がある。
このデータによれば、6年間の徹底的な訓練を経たあとでも、最終的にピアニストとしての高い能力を予想するのは困難だったとある。
6年間の厳しい学習の後でも「才能」というものが現れてこないとすれば、その概念に疑念が生じる。

まだ幼い自分の子どもの才能が自発的に開花されたことを、両親が報告するケースがある。ただし、その真偽は証明しがたい。
非常に早い時期からしゃべり、文字を読みはじめたと報告されている子どもたちのケースを研究者が検証すると、子どもの発達や刺激に親が深くかかわっていたことが逆に明らかになっている。
その親と幼児おさなごの異常なまでに親しい関係を前提にすれば、何がきっかけとなったのかを特定することは難しい。

たとえば、赤ん坊が紙の上に絵の具でグジャグジャに絵を描いたとする。
両親にはそれが子猫のように見え、自分の子どもには芸術の才能があると思い込む。そしてあらゆる方法で、この才能を開花させようと必死になる。
よく耳にする事例であり、研究によればこうした親子間の交流は、確実に子どもの能力の格差につながっている。

ゲノム研究の時代において、何が生まれつきで何が生まれつきでないのかという質問は、もはや意味をなさない。才能は、その定義からして生まれつきであり、その才能を説明する遺伝子があるはずと言うのみだ。
問題は科学者が、2万強ある遺伝子がどのように関係しているのか、いまだに解明できていない点にある。

現時点では、特定の才能に対応する特定の遺伝子は見つかっていない。
今後見つかる可能性はあるが、現時点でピアノを上手じょうずに弾く遺伝子や投資をうまく行う遺伝子、会計業務を得意とする遺伝子は、まだ発見されていない。

いずれにしろ、過去数10年間に行われた何百もの研究は、この証明にことごとく失敗している。
それどころか特定のタイプの遺伝子の違い、すなわちもっとも高い能力を決定する遺伝子の違いは存在しないことを、圧倒的に大多数の証拠が示しているのだ。

一方で、鍛錬たんれんの積み上げこそが「才能」だと裏づけるような身近な事例なら、見つけることは容易だ。
天賦の才てんぷのさいに恵まれていない人たちだけでなく、むしろ不利な状況にあった人が鍛錬たんれんを重ねることで達人となった事例でなら、数えきれないほどある。

子どものころ小児まひの後遺症で足をひきずっていたウィルマ・ルドルフは、後年オリンピックの陸上短距離競技で金メダルを獲得している。
舌足らずで、つっかえつっかえ話をしていたウィンストン・チャーチルは、多くの講演を長期にわたり徹底的に高い精度で繰り返したおかげで、20世紀が生んだ最大の演説家の一人となった(日本にとっては災厄さいやくそのものの人物だが)。
それら事例から、生まれつきの能力は一般に考えられているよりも重要ではなく、存在しないかもしれないとまでする説もある。

凡人とは何かから始まって、「才能」の捉え方に関する現代の知見に話が飛んだが、一言で言うなら「やっぱ、わかんな~い」が結論だろう。
だったら、人には場所・性別・年齢・能力・性格に限らずいつだって何らかの可能性がある、そう信じて前を向くのが良さそうだ。
それに一貫して(持続的に)努力しないのだって、もしかしたら一つの才能かもしれんぞ。

イラスト Atelier hanami@はなのす

いいなと思ったら応援しよう!