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プロムスのラヴェル

40年ほど前の夏、フィンランドに語学研修に行ったことがある。
フィンランドの言葉や文化の研究をおこなう専門学校 Paasikivi-Opistoto の宿舎に、1か月間滞在した。
格好は「研修」でも、僕にって中身は遊びみたいなものだ。
フィンランドの夏は白夜だから、授業が終わる3時過ぎから、様々な場所を見て回った。
今は移民の流入などによって相当治安が悪化してしまったらしいが、当時は「森と湖の国」そのものであり、夜道を歩けばムーミンのような妖精の存在を、実際に感じたりもした。おとぎ話が現実になったような国だったのだ。

帰りは横断鉄道を利用し、ヨーロッパのいくつかの国を見て回った。最後に滞在したのがイギリスだ。
ヴィクトリア駅の改札を抜けると、ハトの腐乱死体が構内に転がっているのに出くわす。ボロボロの服をまとった物乞いのジイさんが、「金をくれ」とすれ違う人に手あたり次第手を出し催促している。首都ロンドンでこれかよ、この国終わってんなぁと思ったもんである。

Joy Divisionの『Closer』を愛聴していたが、自殺したイアン・カーティスの世界観、そのものじゃないかと感じる。誰もが孤立し、明日への希望を見失ってしまったかのように見えた。
おとぎの国フィンランドから絵葉書の街ミュンヘン、ザルツブルグなどをまわってロンドンに着くと、旅の終着がヨーロッパの終焉しゅうえんと重なるように感じられた。その頃の日本は、バブルへと向かう絶頂期にある。

サッチャー政権が生まれ「サッチャリズム」が始まってまだ数年。今思えばイギリスの、ちょうど過渡期にあたっていたのかもしれない。

街のインフォメーションで一番安い宿を探し、1週間そこに滞在する。目的はレコード店と夏のプロムス(世界最大のクラシック音楽祭)だけだから、他に回す金が惜しい。ロンドンの外食はまずくて高いため、朝食付きの宿にした。

初日の夜にロイヤル・アルバート・ホールに出向き、ロンドンの印象は一変する。なんちゅういい国だろうと思った。
天上桟敷席てんじょうさじきせきが、確か日本円換算で600円前後じゃなかったか。ちょうどアバドがウィーン・フィルとブルックナーを振る時にあたったが、安い席だと2,000円しなかった記憶がある(ソールドアウトで観れなかったが)。

知る人ぞ知るの時代だったギュンター・ヴァントは、BBC交響楽団とベートーヴェン交響曲第3番を振っている。これも2日早く着いていたら、わずか数100円で体験できてたのに。
40年経った今さらであるが、超悔しくてたまらない。ザルツブルグで2万円はたいて(それしか席がなかった)聴いた、クソ面白くもない小〇指揮ボス〇ン交響楽団のマーラー『復活』なんか行かずに、ロンドンに直行すべきだった。そしたらヴァントの『英雄』(とシューベルトの3番)聴けたのにぃ。ザルツブルグ安宿の朝食が、割とおいしかったのだけが救いである。

それでも、豪華プロムスは連日続く。
僕の初日はマーク・エルダー指揮BBC交響楽団による、ラフマニノフ『死の島』とブラームスの4番。
そして翌日のメイン・プログラムが、アルフレッド・ブレンデル独奏スコットランド室内管弦楽団によるモーツァルト『ピアノ協奏曲第27番』である。
これが実に素晴らしかった。「格が違うぜZZトップ」ならぬ、響きが違うぜブレンデルなのである。終演後は恍惚感こうこつかんを引きずり、しばらくボケ~っとしてしまった。それ以来ずっと、ブレンデルのファンである。

くどいようだが、わずか数100円でこんな超一流の演奏家が聴けてしまうなんて、相場的にありえない。
当然、国の補助は半端なしにじゃんすか入っていたろうし、これじゃ財政も傾くわけだわな。
僕が行った時にはサッチャー政権による引き締めが始まっていて、文化事業を軽視するなの世論も盛り上がっていたが、過去があまりにも優遇され過ぎだっただけじゃない?って、正直思った。

さらに翌日は、ワルター・ウェラー指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団でマルティヌーの交響曲第4番。メインは若き日のクリスチャン・ツィメルマンによる、ブラームス『ピアノ協奏曲第2番』と来たもんだ。
毎日こんな充実のプログラムを聴かされる上、財布にも大変お優しいのだからどうしようもない。夢グループ社長も真っ青のディスカウント対応だ。

4日目。
デニス・ラッセル・デイヴィス指揮BBC交響楽団の組み合わせ。今でこそウェラーさんを名指揮者と思うようになれば、デイヴィスさんの名も広く浸透している。
当時の無知な僕は「毎日やるんだもんなぁ。そりゃ、指揮者も二流どころ中心になるわな」くらいの、罰当たりな発想でいた。

この日の曲目は
リヒャルト・シュトラウス『ドン・ファン』
ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』(ピアノ独奏はフィリップ・フォーク)
ツェムリンスキー『抒情交響曲』

当時はまるで頓着とんちゃくなかったが、実に練られたプログラムである。
そしてここでようやく、ラヴェルの名前が出る。
すんげぇ道草であるが、当時イギリスの文化事業に対する補助がいかに手厚かったか、触れずにはいられなかった。
で、次回のピアノ協奏曲をもって、僕のラヴェル観を締めようと思う。

イラスト Atelier hanami@はなのす



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