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やっぱベートーヴェン

交響曲を中心に聴いていた10代の頃、しつこい繰り返しが苦手だったベートーヴェン。
当時は他の作曲家を聴くのも交響曲が中心で、さもなくばウィーン学派以降の現代音楽というかたよった志向だったから、思ったほどベートーヴェンを知らずにいた時期が長い。この作曲家にハマっていったのは、他の演奏ジャンルに耳を傾けるようになってからだ。

たとえば、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章。弱音器付きの弦楽器から始まる主部は、すべてを包み込む寛容さと敬虔な響きをたたえている。やがて管楽器が加わり、中間部からなめらかで美しい下行音型ピアノが登場する。
その瞬間など、思わずため息をらしてしまうほどの美しさだ。

たとえば、ヴァイオリン・ソナタ第5番「スプリング」第1楽章。
冒頭から響く、新緑の鮮やかさや頬をでる春風の心地よさを感じさせずにはおかない、あの名旋律。
どこまでも爽やかでありながら、ふと日がかげる瞬間の寂しげな表情。
曲によってときおり垣間見せる稀代のメロディ・メーカーぶりが、この人のもう一つの顔であるのを納得させてくれる。

村上春樹の小説『海辺のカフカ』では、クラシック音楽に関心のなかった星野青年が、喫茶店で流れていた音楽を聴きながら思索しさくにふける。
そして、その時かかっていた“百万ドルトリオ”による『大公トリオ』を、すっかり気に入ってしまうというくだりがある。この小説に感化され、ベートーヴェンを聴くようになった読み手も少なくないはずだ。

「ああ、とてもいい音楽だ。耳ざわりなんかじゃないよ、ぜんぜん。誰が演奏しているの?」
「ルービンシュタイン=ハイフェツ=フオイアマンのトリオです。当時は『百万ドル・トリオ」と呼ばれました。まさに名人芸です。

「なんというか ー 優しい感じがする」
「ありがとうございます」と店主は「百万ドル・トリオ」に成り代わって丁寧に礼を言った。店主が引っ込むと、星野青年は二杯目のコーヒーを味わいながら、省察の続きにとりかかった。

村上春樹『海辺のカフカ』

この大公トリオの、わけても緩徐楽章(第3楽章)の崇高なまでの美しさ。他者への愛と優しさ、暖かさに満ちた響きは、聴く者の心をきよめてくれるようだ。

古今ここんのピアノ奏鳴曲そうめいきょくの中で、いちばん好きな曲を問われたら、ベートーヴェンの第三十二番(作品一一一)を私はげる。バッハの『平均律へいきんりつクラヴィーア曲集』を旧約聖書とするなら、ベートーヴェンの後期ソナタは新約聖書だという有名な言葉がある。たしかに後期の四曲(作品一〇六、一〇九、一一〇、一一一)は、聖書にもたとえるべき宗教性・崇厳感すうごんかん偉大いだいさ、さらに人類のったもっと典雅てんがで、輝かしくも美しいしらべをちりばめているが ーとりわけアダージオでそうだがー そんな四曲の中でも作品一一一を最高の傑作けっさくに私は挙げたい。
ベートーヴェンはこのハ短調以降、もうピアノ・ソナタは書かなかった。ピアノで語るべきことはすべて、言いつくしてしまったのだろう。

作品一一一(五味康祐)「ミセス」文化出版 1972年

肺ガンのため58歳で没した五味康祐ごみやすすけは、病室に持ち込まれたオーディオ装置とヘッドフォンを使って、生涯の最後にこの曲を聴いたという。まこと愛好家冥利みょうりに尽きるというものだろう。

最後に、僕がベートーヴェンに目覚めたピアノ・ソナタ第8番『悲愴』について触れようと思ったが、このまま五味康祐ごみやすすけで締めてしまおう。

― あの時、私が神保町へ向って歩いて行かなかったら、併し、多分私は世に出る事もなく、何処か浮浪者の群に投じているか、哀れな行き倒れの身になっていたろう。

― 突然、私の耳に素晴しい音楽が聞こえた。
レコード屋の前であった。

何という美しい音か。
私は魂の浮上ってゆく感じで聴き入った。霏々と舞う雪の一粒一粒は、その音を吸い取ってしっとり重みを増して降ってくるような気がした。私の聴き馴れぬ曲だったが、こんなに美しい音楽が世の中には在るのかと思った。

すると、不意に歓喜の涙が溢れ、どんなに自分は優れた作品を今胸に抱えているかを信じる気になった。レコード屋の硝子扉に背を押しつけ、私は空を見上げてハラハラ泣いて、聴いた。

指さしていふ(五味康祐)

そのとき聴いた音楽がなんであったのか、五味は具体的に述べていない。
それが読者の想像に委ねられているなら、誰もが自分の好きな曲に想いを重ね、選べばいい。
僕なら、それはやっぱりベートーヴェンで、ピアノ・ソナタ第8番の第2楽章のほかないと断じてしまおう。
奏者にまで強いこだわりはないが、ひとまずアニー・フィッシャーってことで。
初めて聴いたその時、「こんなに美しい音楽が世の中には在るのかと思った」のが、僕にとってはこの曲だったから。

イラスト Atelier hanami@はなのす

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