やっぱベートーヴェン
交響曲を中心に聴いていた10代の頃、しつこい繰り返しが苦手だったベートーヴェン。
当時は他の作曲家を聴くのも交響曲が中心で、さもなくばウィーン学派以降の現代音楽という偏った志向だったから、思ったほどベートーヴェンを知らずにいた時期が長い。この作曲家にハマっていったのは、他の演奏ジャンルに耳を傾けるようになってからだ。
たとえば、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章。弱音器付きの弦楽器から始まる主部は、すべてを包み込む寛容さと敬虔な響きを湛えている。やがて管楽器が加わり、中間部からなめらかで美しい下行音型ピアノが登場する。
その瞬間など、思わずため息を漏らしてしまうほどの美しさだ。
たとえば、ヴァイオリン・ソナタ第5番「スプリング」第1楽章。
冒頭から響く、新緑の鮮やかさや頬を撫でる春風の心地よさを感じさせずにはおかない、あの名旋律。
どこまでも爽やかでありながら、ふと日が翳る瞬間の寂しげな表情。
曲によってときおり垣間見せる稀代のメロディ・メーカーぶりが、この人のもう一つの顔であるのを納得させてくれる。
村上春樹の小説『海辺のカフカ』では、クラシック音楽に関心のなかった星野青年が、喫茶店で流れていた音楽を聴きながら思索にふける。
そして、その時かかっていた“百万ドルトリオ”による『大公トリオ』を、すっかり気に入ってしまうというくだりがある。この小説に感化され、ベートーヴェンを聴くようになった読み手も少なくないはずだ。
この大公トリオの、わけても緩徐楽章(第3楽章)の崇高なまでの美しさ。他者への愛と優しさ、暖かさに満ちた響きは、聴く者の心を浄めてくれるようだ。
肺ガンのため58歳で没した五味康祐は、病室に持ち込まれたオーディオ装置とヘッドフォンを使って、生涯の最後にこの曲を聴いたという。まこと愛好家冥利に尽きるというものだろう。
最後に、僕がベートーヴェンに目覚めたピアノ・ソナタ第8番『悲愴』について触れようと思ったが、このまま五味康祐で締めてしまおう。
そのとき聴いた音楽がなんであったのか、五味は具体的に述べていない。
それが読者の想像に委ねられているなら、誰もが自分の好きな曲に想いを重ね、選べばいい。
僕なら、それはやっぱりベートーヴェンで、ピアノ・ソナタ第8番の第2楽章の外ないと断じてしまおう。
奏者にまで強いこだわりはないが、ひとまずアニー・フィッシャーってことで。
初めて聴いたその時、「こんなに美しい音楽が世の中には在るのかと思った」のが、僕にとってはこの曲だったから。
イラスト Atelier hanami@はなのす