記憶のない演奏
前回、例によって本題と違う方向に逸れてしまった。修正せんと、今度はシェーンベルクとかセリエル音楽の方に行ってしまう。
するとウィーン学派で止まるはずもなく、メシアンの「トゥーランガリラ」は愛の歌・喜び・時間・動き・リズム・生と死への賛歌を同時に意味し、インド芸術音楽120種のリズムパターンのうち33番目の名であるとか、だからどうした的な羅列に繋がっていくのである。
そうした展開となればまさに、第10楽章もあっていつ終わんだよの「トゥーランガリラ交響曲」、そのものではないか。
気づけば岡本太郎の「縄文の発見」礼讃とかなってたりして、それはそれでまとめられるだけの知識とか筆力があればいいのだが、無理なことはせず、書きたかった一人のギタリストに絞る。
毎日々々、このようにどうでもいい駄文を綴っていくにも、それなりの目的と意志がいる。
60歳を過ぎて、頭も身体もすっかりさぼり癖がついている。身体動かすのは若い頃から億劫であったため、せめて頭のトレーニングぐらいはと、それと「清水いはら道の駅プロジェクト」の事務局長を担っているので、そちらの備忘録やちょっとした宣伝になればとの意図から続けている。
かつて、デレク・ベイリー (Derek Bailey、1930年1月29日 - 2005年12月25日)というギタリストがいた。イギリスの前衛ギタリストであり、フリー・インプロヴィゼーション運動の重要人物である。
フリー・インプロビゼーション(またはフリー・ミュージック)とは、一般的な音楽ルールがなく、演奏者の直感に従って即興で作られる(奏される)音楽を指す。
クラシック音楽において、ピアノ協奏曲やオペラのアリアなどで独奏楽器や独唱者が、オーケストラの伴奏を伴わず自由に演奏・歌唱するカデンツァ。これも、即興演奏の一つには違いない。
ただそこに、曲想から離れた表現は一切ない。決まりごとの中で与えられる、枠付きの自由な表現である。
ただし、才能ある奏者が人生のほとんどをたゆまぬ鍛錬に費やすことのみから可能となる技巧や解釈は、場合によって人生を変えてしまうほどの魔力を有する。
その点、ジャズの即興演奏はさらに自由度を増すが、まったく無規則に演奏されるわけではない。原曲のコード進行、そこから展開可能なコードに基づき、アドリブが展開される。
個人的にはこのアドリブこそが、最も命を削る演奏行為だと思っている。個人の技量と内面、文字通りすべてが、瞬間々々否応なくさらけ出されてしまう恐ろしさ。
これがチャーリー・パーカーなどトップクラスの域になると、素面のままプレイを続けていれば、発狂しちゃうんじゃないかと怖くなる。酒やドラッグによって、研ぎ澄まされた精神の均衡をかろうじて保っていたように思えてならない。彼らは荒れに荒れた私生活と引き換えに、人類最高峰の遺産を残してくれたのだ。
デレク・ベイリーは、フリー・インプロビゼーションを「記憶のない演奏」と表現した。
彼は著書『即興』の中で、フリー即興には「文体や慣用的なこだわりがありません。規定された慣用的な音もありません。自由な即興音楽の特徴は、それを演奏する人の音楽的アイデンティティによってのみ確立されます」と書いている。
ベイリーはまた、「人類の最初の音楽演奏はフリー・インプロビゼーション以外の何ものでもなかった」ため、フリー・インプロビゼーションが最も初期の音楽スタイルであったに違いないと主張している。
10歳よりギターを始め、すでに1950年代には地元シェフィールドでプロのギタリストとして生計を立てていたベイリーが、何を好き好んで、誰からも理解されないだろうこんな音楽を始めたのか。
44年前の冬、なんの予備知識なしに体験したデレク・ベイリーのギターを、彼の1月29日の誕生日をきっかけに反芻してみたくなった。
上手くいくかわからんが、また明日。
イラスト hanami AI魔術師の弟子